nagajisの日不定記。
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19日の話である。日の出直前に寝たにも関わらず10時前に目覚めることができ、なんだか勿体ない気がしてきたため、一転して徒歩調査へ赴いた。洞の共同井戸、洞池を回った時点で15時過ぎ。せっかくだからと、忍海村と新庄村の道路元標を回収しに行った。行ったのである。行ったんだってば。行ったんだよ。しかも、そこで・・・。
どちらが新しいのかよくわからなかったが2つは水路で繋がっている模様なうえ2つとも大字洞にあるらしいことを境界標のお陰で知った(また境界標かよ!と思ったあなたは正しい)。さてどう料理したものか。
誰も来ねえだろうと思っていたら2人もすれ違ったのが妙。よほどよく踏まれた道なので畝傍山に登る道としてメジャーなのかもしれん。
肝心の水の出所がいまいちよくわからなかった。岩盤から染み出てくるのを貯めていたのだろうか?にしては水量が少なすぎる。以前は沢山出ていたのだと説明されてしまうとそれっきりな気もするがモノは現実的でないなあ。場所も谷筋ではなく尾根筋に近いところにある。湧水豊富そうには思えぬ。
さっそく書いてみたがあれが洞池という確証がないのな。下の池は新池という名前らしいし(「橿原神宮と建国奉仕隊」図より)、その図には上の駅書かれてないし。ううむ。
里程元標のほうも進まない。奈良県は明治21~23頃に里程標の設置を行った?公文書「里程一件」なるものが存在するらし(伝聞形)い上に市町村のは木標であった。んで何故か左のこめかみが痛い。
御所、天川へ向かうタイミングが掴めない。寒いのは我慢するが、それ以外の要因でいろいろと。先にやらないかんこととか。
「天川ガイドマップ」によれば川迫から来た軌道は沢谷で終点。南角に土場、神童子や弥山の奥に製材所があったという。索道中継点というのは、当時は屈曲停車場を作れなかったため。あ、「天川ガイドマップ」の写真の搬器はロー式やな・・・。電索は玉村式やなかったっけ。
うん、たぶん違う。大阪荷箱のんじゃねえの?
里程元標の件、大正9年以降に作ったんなら道路元標じゃないのか的なお話でしょうか?青森県は元標ほとんど残っていないので羨ましい…。
まあそんな感じです。加えて奈良県の場合、里程元標の位置を踏襲して道路元標を設置しようとしたらしいですし、その里程元標位置の調査は大正8年末には終わっていたようで、その後に、近い将来無用になることがわかっていながらコレを建てたということになってしまいます。よくわからんちんです。