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旧道倶樂部録"

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2015-01-23 [長年日記]

[煉瓦工場][煉瓦刻印] 和歌山煉瓦製造所

本当は福知山へ探索にゆくつもりだったのだが,天気が芳しくないらしかったので,急遽南へゆくことにした.和歌山県の煉瓦工場跡巡りである.そう.また煉瓦である.もうホント煉瓦部録”とか何とか改名すればいいのにと思う.


和歌山県にも数少ないながら煉瓦工場が存在した.例えば大正5年から昭和13年まで存在したらしい和歌山煉瓦製造所(和歌山県和歌山市太田61、『工場通覧』への記載は昭和7年版から),昭和11年12月創業という記録の残る岩橋煉瓦製造所(草郡西和佐村1280,昭和36年頃CB製造に転換?),などが比較的長期間操業していた工場だ.そして和歌山市やその周辺で集中的に見つかる刻印ってものがある.以前橋本で見つけた分銅マークだ.橋本は紀の川を遡ったところ.友ヶ島や岬町でも分銅刻印は見つかっている.そんなわけだから、和歌山市あたりから滲出してきたと考えるといろいろと辻褄が合うのだ.それが和歌山煉瓦か岩橋煉瓦のどっちかのではないかと踏んでいて、今回はそれを見極めるために現地訪問を敢行したのだった.

和歌山煉瓦も岩橋煉瓦もともに和歌山市内にあるものの、歩いて回るにはちょっとばかし離れている。調べてみると和歌山駅でレンタサイクルが借りられるとのことだったので、有り難くそれを使わせてもらうことにした。んで日がな一日チャリンコをリンリン漕いで回ったわけなのだけれども、結論からいえばリーチのみの安上がりと思っていたのが一発自摸の上に裏ドラが乗ってしまったような好成績を収めた。やはり行かなければ何も始まらない。


和歌山煉瓦製造所は貴志川線田中口駅のほど近く。駅を出た線路が東にぐっと曲がってゆく辺りに現在の61番地がある。線路の北側だ。JR和歌山駅からへろへろ南下していって、その辺りに着いてみたとき、線路の北側には真新しい住宅街が広がっている雰囲気だったので、敢えて線路を渡って南へ入ってみた。そちらにもヴァーチェ寿なる新しいアパートがあり、状況はさほど変わらないようにも見えたのだけれども、自慢の煉瓦センサーに何やらピピッとくるものがあったので南行を続行した。いや最近マジでnagajisには煉瓦に反応するセンサーがついてるんじゃないかと思う。東西南北を新アパートに囲まれた中に

画像の説明

こんな感じの、時代に取り残されたかのような古い家屋の並ぶブロックがあったりしたのだから。そうそう、こういう古民家の軒下に煉瓦が転がってるんだよね。

道端に自転車を停めて路地を歩き回ってみると… … 速攻で分銅刻印が見つかった。ひとつはやや細めのやつで、フンドーキンの分銅マークをイメージしていただけばよいと思う(後掲)。もう一つは橋本で見たのとほぼ同じ、真円からその直径の1/3の真円を2つくりぬいたような真ん丸なやつだ。あるんじゃないかと考えていたものがあるんじゃないかという場所にあったものだから、え、もう見つかったの?と拍子抜けしたのが正直なところだ。

画像の説明

すぐそばで見つけたこの煉瓦が象徴的。泡ブクができるほどに焼けただれた煉瓦だ。麻雀牌をめくるごとくにひっくり返すと…

煉瓦刻印 和歌山煉瓦

はい、ロンです。これだけ焼損している焼損煉瓦に分銅刻印があるってことは、ここにあった工場が使っていた刻印であって和歌山煉瓦=分銅としか考えられないではないか。

でもまあまだ数個だし、せっかくここまで来たのだから、もうちょっとじっくり探し回ってみようじゃないか。そう思い、民家の並びに沿って歩くいていくと、建物の間の小径を通って裏手に出られるのを知った。その勝手道に沿って作られた花壇にも焼損煉瓦が使われていた。刻印が判明しないものも多かったが、刻印があれば必ず分銅マークという状況だ。うん、ますます分銅=和歌山連額祭。

家の裏手は畑になっていて、そこにはこんなあからさまな焼損煉瓦もあった。やはり分銅刻印入りだ。

煉瓦刻印 和歌山煉瓦2

ここまで確認したら充分かな。と思いつつ、畑の向こう側に回ってみたくなったので(今いる小径は畑の端で行き止まりになっていて向こうへは出られない)、来た道を引き返してヴァーチェ寿の側から近づいてみた。この南にも似たような新アパートがありプロヴァンスIVという。その プロヴァンスIVの駐車場から畑を見ようとした時に、さっき前を通ったばかりの旧民家のお父さんが庭に出ているのを発見。これを逃してなるものかとばかりに声をかけ、駆け寄って話を伺った。望みどおりの方だった。

・工場は民家の西側のプロヴァンス他号棟が集まっている辺りにあった。プロヴァンスIVは工場所有者の吉村氏の居宅があった場所で、氏が亡くなったあと売却されマンションが建った。お父さん宅を含む旧民家の辺りも吉村氏所有の土地で、そこを借りて家を立てている(ご子息が京都にお住いで今でも土地を管理しているとか)

・ここに住むようになったのはつい7、8年前のことだが、近くの生まれなので工場があったことはよく覚えている。貴志川線の電車の窓から大きな煙突が1本見えていた。いつまでやっていたかは不明。越してきた時にはもうすでになかった。

煉瓦に刻印があることは私がお見せするまで気づかなかったようだ。分銅マークと和歌山煉瓦の関係も。まあいい、線路の北だと思っていた工場が南側にあったことがわかったこと、煉瓦一本=窯一つだったことがわかっただけでも大きな収穫だす。

[煉瓦刻印] 和歌山煉瓦2(細)

その後、花山温泉の前を通る府道で田井ノ瀬駅方面へ向かい、同じ道を通ってまた帰ってきたのだけれども、道すがらのあちこちで分銅マークを見ることになった。さすが工場のお膝元という感じだ。そもそも和歌山県下で煉瓦探しをした経験が少なく、どんな刻印がどれくらい分布しているかわからなかったので、ほとんど白紙状態なところへ多数の分銅刻印がプロットされた結果、分銅=和歌山という印象がすごく強くなった。実際には泉南から入ってきたもののほうが多数なのだろうと思うのだが(和歌山県には大正期に紡績業が流行し、紡績工場や染色・化学薬品の製造所がたくさん建った。それが今でも残っている。そういう大工場の煉瓦建築に使われたものはやはりキシレンとか大阪窯業とかの大企業が納入したんじゃないかと思う。中小工場では一度に大量の煉瓦を納入できなかったからね。そういうところではなく小さな工場や一般家庭で使う分には和歌山煉瓦の煉瓦が使われたんじゃなかろうか)。

分銅マークには細いのと丸いのと2種類あると書いたけれども、細いほうが煉瓦が古い感じがする。工場跡地にあったコレなどはいかにも東京並型な赤い煉瓦だった。

煉瓦刻印 和歌山煉瓦

丸こいのも無論旧規格のものが多かったけれども、花山の鳴神団地に使われていたものはJIS規格だった。そして焼き色があまりよくない。一般的には焼きが甘い=火力が弱い=古い煉瓦の証拠みたいに言われるけれども、和歌山煉瓦に限っていえば逆らしい。

画像の説明

鳴神団地はちょっと不思議な雰囲気の場所。ずいぶん昔に作られた団地であるらしく、特に花山の峠に近い所ほど古くて空室も目立つ。一部廃墟かゴミ溜めのごとくになってしまったところもある。そうしてその長屋の表側に、隣との間仕切りとして小さな煉瓦壁が作られている。腰よりちょっと高いくらいの壁だ。この作りは団地の建物の共通フォーマットみたくなっている。してその壁にJIS規格の和歌山煉瓦が使われているのだった。

いくら古そうな住宅といっても戦前まで遡ることはないはずで、とすると戦後も和歌山煉瓦が操業していたことになり、戦後の通覧には出てこないことと辻褄が合わない。従業員数10人以下でホソボソとやっていたのだろうか。ナルダンの建設時期が和歌山煉瓦のオシリを左右する重要なタイムラインマークになるやも知れぬ。この壁で見つけたもう一つの刻印にとってもだ。

[煉瓦刻印] 懐かしの井桁K

煉瓦刻印 井桁K

実をいうと、ナルダンで最初に見つけた刻印はこれだった。貝塚煉瓦ライクな井桁にKの文字が入っている。遙か昔、徳島の猪の鼻峠の旧道にぽつんと残っていた小屋の中で目撃したことがある刻印だ。あれ以来一度も見たことがなく、またKaidukaのKでもあるので、貝塚煉瓦のバリエーションかも知れない位にしか考えていなかった。その刻印にここで再会した。しかもJIS規格サイズだ 。ということは、明治年間のうちに消滅してしまった貝塚煉瓦のものではあり得ないことになる。井桁にKをトレードマークにした会社が存在したということだ。

大正期に湯浅町に川口煉瓦合資会社ってのがあったり、窯業名鑑にのみ出てくる紀州煉瓦なる煉瓦販売会社?もあるけれども、それが戦後まで続いたという記録はない。大阪の工場ではないだろうと思う。府下では見いひんもん。あるいは徳島・香川あたりの工場であったのかも。そんなこんなでナルダンの建設時期を知らねばならないと思うのだった。

井桁Kの煉瓦が使われていたのは団地の最上段の道路に面した長屋だった。現県道の対岸を通っている旧幹線道と思われる道。分銅刻印はその道と府道に挟まれた、谷底に位置する建物群で多数目撃した。建物のつくりはどちらも同じで建設年に違いはないものと思う。

[煉瓦工場] 岩橋煉瓦製造所

現和歌山市街のエリア内(旧西和佐村)に所在し、和歌山煉瓦に次いで長い期間操業していたらしい工場。昭和11年12月に興り、戦後の工場通覧でも1度だけ出てくる。ただしその出現のしかたが奇妙。昭和22、3年のものには載っていなくて、昭和26年の版に「(休)」つきで載り、その後また載らなくなる。して昭和30年代のにほぼ同じ住所で「岩橋ブロック工業」が現れる。再開したのかしなかったのか、再開したものの従業人数がFランクだったために載らなかっただけなのか、そのへんはよくわからない。さらにいうと大正時代に 同じ村内に2年ほど「和歌山窯業」という煉瓦工場が存在したことになっている。それとの関連もあるようなないようなで、要するに謎ばっかりな工場だ。

番地まで判明しているが「西和佐村」というのが存在しなくなっているためせっかくの情報が役に立たない。字西和佐というのもない様子。しかし旧西和佐村エリアに岩橋という大字が見つかったので、とりあえずそこまで行って、あとは現地でなりゆきに任せることにした。


花山温泉の前を通り、小さな峠越えをして岩橋へ下る。県道沿いには 花山(ナルダン)から引き続いて民家が並んでいて、ここから岩橋という区別がつきにくいのだが、県道から少し引っ込んだところに家々が並び始めたことで別字に入ったことを知った。そのまま下っていけば岩橋の中心に出る。そんな場面で再度煉瓦センサーが作動した。左の小径に入ってけという。ま、センサーのせいにするのはちと大げさか。2車線県道の脇より在所の中のほうが煉瓦が在りやすいってのは自明の理だろう。

車じゃ登れないだろうという細く急なコンクリ道で在所の中を駆け上がっていくと、在所の最上段を形作る車道に出た。古そげな民家もその道に沿って連なっている。これがこの在所の旧幹線だろう(県道の峠のあたりから水平にくればこの道に出る)。

この車道からふと下の民家を見ると、駐車スペースの脇に花壇があり、古煉瓦が使われているのが見えた。しかもなんか焼損煉瓦くさい。こいつらにセンサーが反応したんだとしたら大したものだな、と思いつつ、ちょっと失敬してそこまで降りていった。

和歌山煉瓦 和歌山煉瓦

最初の一個は和歌山煉瓦。陰影がすごく薄くてそうだと気づくのに時間がかかった。その隣のにも刻印があって同様に薄い。目を凝らして眺めた末、井桁の記号を読み取った。貝塚煉瓦? にしては菱形でなく方形だ。長手小口に対して平行でもある。んー。んー。ン?

温めなレベルで推移していた記憶がピキーンとかシャキーンとかいう擬音を伴って鮮明になった。これ、どっかで見たことがあるぞ。あれだ。五條新町の東のほうで不躾に転がってたやつだ。正方形の井桁だ。

煉瓦刻印 岩橋煉瓦

民家前に一つだけ転がっていた転石で、他で見たこともなかったから、貝塚煉瓦のバリエーションの可能性ありとラベルして放置していたもの。その同型が出てきたわけだ。 和歌山−紀の川−五條という繋がりもある。だったらこれが岩橋煉瓦の刻印だったりするのかも知れないぞ? 工場跡地を探し出すのが関の山で「何もない」を確認して帰るだけだろうと思っていたのだが、それが意外な方向へ転回しだした瞬間だった。 まあ、これ一個じゃ憶断即断段田男でしかないけどな。

さきほどの旧幹線道に戻り、先へ進む。道路脇の旧家や畑をチェックしつつーーー まったく違う刻印を発見したりしたーーーそれはまた後ほど書くーーー、少なくとも煉瓦に遭遇しやすい地帯に入っていることを認識した。探せばどこかに煉瓦がある、道端に不意に転がっていたりするはず、という直感がビンビンするし、実際そんな煉瓦がいくつもあった。新興の在所だとこうはいかない。

こういう時こそ煉瓦センサーに稼働してもらわねばならないのだが、すぐにそれが不要になった。あからさまなやつがあったのだ。

画像の説明

これは本格的な煉瓦壁。囲われている民家も古く、和風ながら洒脱な感じが漂っていた。これはふつうの家じゃないなーーーお金持ちとかそういうのじゃなく、煉瓦製造に関係のあったお宅に違いないーーー煉瓦工場の関係者宅にふんだんに煉瓦が使われているのをあちこちで見たーーーと確信し、またこの壁のどこかに井桁印があるような気もした。自転車を停めてじっくり調べて回ることにした。幸いお宅は留守の様子。県道に面した壁だとか、写真手前のやつとかはまあ許容される範囲だろう。

煉瓦壁に刻印を見出すのは難しい。平が表に露出することが少ないから。その少ない露出を探して歩き回った。壁の上端とか迫り持ちの裏側で見られる場合があるものの、この壁の上端はモルタル塗りだし、そもそも天辺の煉瓦は小端立てで積まれてあった。モルタルが塗られていなかったとしても刻印は露出しない。

結局、その小端立ての末端で刻印を見つけることになる。上の写真の矢印の位置、壁の高さが変わっているところで壁に亀裂が入っているのだが、

煉瓦刻印 岩橋煉瓦

その亀裂の隙間に見つけたのだった。いやはや執念とは恐ろしいものである。

ていうか、そのあと正門前でわかりやすいやつを見つけたんだけどね。誰もが納得してくれる井桁印だろうと思う。

画像の説明

[煉瓦刻印] 縦二線

煉瓦刻印 縦二線

字岩橋の旧幹線沿いの畑で目撃。この間「始末に困る」といったばかりの単純記号がまた出てきた。今度は縦棒2本だ。

しかもその後、称名寺近くの瓦礫のなかに全く同じのを見つけてしまった。

煉瓦刻印 縦二線

ソフトバンクの〓もそのうち同じような道を辿るだろうと予言しておく。あと100年もしたら携帯もスマホも必要のない世の中になって、産業考古学者の頭を悩ませるobsolete markになるのだ。

最寄りの工場としては岩橋以外に南出煉瓦製造所と和歌山窯業があるわけだが、南出は今回行きそびれたので推定を加えることさえできぬ。

[煉瓦工場][煉瓦刻印] 岩橋煉瓦製造所2

上の写真を撮っている時、民家の敷地の南東端に煉瓦造りの離れ棟があるのを発見した。大きな煙突がついていたので始めは焼却炉か何かかと思ったのだが(それほど小さな別棟だ)、サッシ窓がついてるし、階上に胸壁の如きものがあったりもするしで、居住空間として使われている様子。規模は小さいけれども見逃せない建物であるように思った。煉瓦壁に煉瓦小屋まであるからには、岩橋煉瓦と何か関係のあるお宅であるに違いない。

この家自体が高い石垣の上に作られているので、下から離れの別面が見えるんじゃないかと思った。それに、こんな煉瓦構造物があるなら在所の中にも煉瓦が多数あるんじゃないか。と、いうわけで在所の下手のほうへ行ってみることに。

旧幹線に戻り、自転車を回収して先へ進む。道はすぐに下り坂となり、現県道と同じ高さにある下の在所に降り着いた。そこから逆向きに伸びる枝道へを見つけ、入っていけば、さっきの煉瓦棟の真下に出る。

画像の説明

下から見るとこんなかんじ。窓があり胸壁がありで陸屋根の小部屋であることがわかる。胸壁には長尺の異形煉瓦が使われていて、また端物を使った飾り積みも見える。結構こだわった作りだ。斜めに突き出した細いパイプは浄化槽の排気用? だとするとこの一室で生活が完結するような離れか、もしくは風呂+トイレの別棟なのかも知れない。煉瓦製の風呂かあ。いいなあ。贅沢だなあ。とか何とか思いながら眺めたことだった。

それを見て帰っている途中、行きしに通った道を老夫婦が歩いてくるのを捕捉した。怪しまれたのだろうか? と焦ったものの、こういう時こそ逆にものを訪ねて現実歪曲空間を張るほうが上策と心得ている私である。さっそく件の煉瓦小屋をタネにして話を聞いてみた。

・この辺でむかし煉瓦造りをしていたそうですね。>然り。いまはもうやってないが代わりにコンクリートブロックを作っている。岩橋ブロック工業ゆうてな。

・へえ、今でもあるんですか!>いや今はつくっとらんのやがな。

・あ、すみません、後を継いだ会社が営業してるってことですね。いやー、あそこに立派な煉瓦小屋のあるお宅があったものだから、煉瓦工場と何か関係があるんじゃないかと思いまして。>いやいやあれは関係あらへんお宅や。工場主の家は向こうにあったけど、取り壊して、いまは中古車販売屋が営業しとる。んで工場は別のところや。

・へえへえ。その工場に行ってみたいのですけれども。どう行ったらいいんでしょう?>うーん、ちょっと引っ込んだところにあるけえ説明しにくいな。あっちのほうなんやが(と南東のほうを指す)。わからんかったら高橋神社を探していけばええ。

・なるほど、高橋神社。ありがとうございます、探してみます。

とまあこんあ感じの問答をし、次の目的地を得ることができた。次は高橋神社か・・・。

自転車に戻り、とりあえず南東方向へ向かうために県道に出ようとしたところ、お誂え向きに住居表示の看板に遭遇した。ものすごくご都合主義的だがこれも紛うことなき現実なのだ。たまにはこんな都合のいい探索があってもいいだろう。 画像の説明

ほうほう、確かにあるぞ岩橋ブロック工業が。風土記の丘の麓、現在地のすぐそばの川を遡ったところ?にあるようだ。その川向かいをまっすぐ行ったところに高橋神社もある。ならば県道で川を渡って、川伝いに走っていけばいいわけだな。その途中で高橋神社の案内看板もあるだろう。

自転車をへこへこ漕いで橋を渡る。右手に空き地。県道を渡って、その空き地の脇を入ってゆく。ずっと川伝いに行くこともできるようだったが左手に古い家並みが見えたので敢えてそちらへ入っていった。軽自動車が一台入れば逼塞するだろうという細道だ。複雑に折れ曲がっていく道に沿って準和風な民家が軒を連ねていて、奈良の旧街道沿いの在所か、発展から取り残された環濠集落の密集を抜けているような感じがしてちょっと懐かしかった。

ところどころで煉瓦の断片を見、確かに近づいているという確信を感じ始める頃、煉瓦ではなく犬に遭遇した。民家の格子門の前で丸まっていた。首輪をしているが繋がれてはいない。放し飼いの飼い犬のようだ。 こういう「所属不明」な飼い犬を昔はよく見かけたものだが、いろいろ喧しくなった昨今でもやっているのは珍しいんじゃないだろうか。

画像の説明

自転車を降りて近づいてみた。実におとなしい柴犬で、吠えかかったりすることも警戒しているようすもない。よーしよしよし、おとなしいねえ、賢いねえとかなんとかいいながらワシャワシャ撫でてやった。どちらかといえば猫派な自分ではあるけれども犬を嫌うほどの原理主義者ではない。かわいくておとなしければ何だって良いのだ。特に今のように、見知らぬ土地で一人さまよって、不安な気持ちを持て余している時には。

ひとしきり遊んでやると、犬は拮然として立ち上がり、そして駆け出した。嫌がって逃げたわけでもないらしい。ちょっと走っては振り向き、走っては振り向きしている。まるで「こっちにこい」といっているかのよう。まさかな、と思って後をついていくと、数十mも行かないうちにこじんまりした神社がありーーーそれが高橋神社だったーーー、その鳥居前を折れて右へ行く。あ、おれその神社探してたんだけど。待ってくれよ。

犬が駆け去っていった先には橋が架かっていた。その橋の向こうにはうず高く積まれたコンクリートブロック。それを見て、目的地である岩橋ブロック工場に導かれたことを悟った。犬すげえ! おれは何も言ってないぞ! 連れてってとも煉瓦のはなしもしてないぞ! 画像の説明

そうして彼女はそちらへ向かわなかった。橋を渡る直前で左の団地へ入っていってしまったのだ。あ、待って、そっちじゃなくてだね……と言いかけたところで真意を悟る私。そっちのほうが正しい答えだったのだ。

画像の説明

そこは「岩橋ブロック工業K.K」と大書されたアパートメントだった。岩ブロの社宅なのだろう。そうしてその大書の頭に、件の#マークが! CB製造に移行しても同じマークを使い続けていたのだ!

煉瓦刻印 岩橋煉瓦

煉瓦刻印 岩橋煉瓦

そのうえ、社宅の庭に煉瓦がたくさん。角丸や長尺物など異形煉瓦ばかりだ。余った煉瓦の遣り場に困り、社宅の庭に使っているのだろう。もちろんその煉瓦にも「#」が刻まれていた。岩橋煉瓦=#が確定した瞬間だった。

改めて、犬って賢いと思った。犬に導かれて刻印確定するとは思わなんだ。 どう贔屓目に考えても猫はここまでしてくれない。煉瓦工場の場所を問うたつもりはないのだけれどもなあ。手についていた煉瓦の匂いを嗅ぎ取ったのかな。それとも心を読まれたか?

せっかく同定に成功したのだし、記念に岩橋煉瓦の刻印をゲットしようと思ったのだけれども、まさか社宅にあるものを拾って帰るわけにはいかない。あちこち歩き回った末、工場の東の畑のなかに瓦礫で埋め立てられた一角があるのを見つけ、そこで#刻印を入手することができたのだった。

[煉瓦刻印] ○三?

岩橋煉瓦工場跡に到達するきっかけとなった煉瓦塀の家の隣は畑であった。道路から4、5mほど下がったところに広がる10m四方ほどの耕作地は煉瓦塀の家の所有物と思われたのだが、そのように推定した理由はただ隣り合っているからというだけでなく畑のあちこちに煉瓦が転がっていたからでもあった。畑の隅には煉瓦が小山をなしていたりもした。

煉瓦刻印 ○三?画像の説明

そんな畑に転がる煉瓦を道路の高さから眺め下ろして幾つかの煉瓦刻印を確認した。最初に判別できたのは日本煉瓦の花印。ただし副印が添えられているのかどうかまでは確認できなかった。もう一つ気になった刻印が写真のもの。 35mm換算105mmの中望遠で撮影したものだが、細い○の中に数本の線が入っているように見えるのは4m強の距離を挟んで肉眼で捉えた印象と何等変わるものでなかった。要するに写真に撮っても撮らなくても同じ結果であったわけで、いささかもどかしい。間近に寄って目にも見たかった。しかしこの畑に立ち入るためには民家の脇を降りてゆくか畑の一角にある駐車スペースの背後の梯子階段を降りていかなければならず、またその駐車場にはロープが張り渡されて無断進入禁止の態が漂っていたため見送らざるを得なかった。

[煉瓦刻印] *

煉瓦刻印 *

和歌山煉瓦跡地から花山へ向かう途中でも初見の煉瓦刻印を1つ採取している。三本線が一点で交差した幾何学図形はアスタリスクを連想させずにいないのだが中央線上端が他端より長いのに対し下端は一列に揃っているという変則的なものであるため厳密にはアスタリスクと言うことができない。仮にアスタリスクだったとしても類似例を見たことがなく他に目撃情報もないようである。

この刻印を発見したのは貴志川線日前宮駅の西手の住宅地の中だった。軽車道以下の細い舗装道で線路を渡った先に袋小路になった住宅街があり、その入口付近に2軒並んで建っている民家の線路に近い方の庭先で上がり框の如き役割を担わされている敷石に用いられていた。長年踏まれたせいて摩耗が進んでいるものばかりだった中に一つだけ刻印を見ることのできる煉瓦が混じっていて、それが写真の刻印であった。

[煉瓦刻印] 「日」

煉瓦刻印 「日」

岩橋ブロック工業KKに至ったあと「和歌山窯業」の痕跡を探して北方在所を走り回った。それに直結するものは見つからなかったかわりに初見の刻印を一つ発見した。称名寺というお寺の家の角にあったもので漢字の「日」と読める。漢字圏に暮らす人間として宿命的反射的に「日」と読んでしまったけれども必ずしも「日」である保証はないことは予断の必要もないだろう。

印南郡やうちの近くにある藤井寺というお寺で「日」刻印を見つけていて、日成産業の刻印だろうと推定しているけれども、写真の刻印はそれと異なる新系統のように思われる。前者は長手を前にした時に正対する向きに打刻されているが後者は小口を前にした時に正対する。線の太さも異なる。一つの会社の中で長手前と小口前とが混在することはあまりない(それは作業の流れや作業位置に関係するものであるからで、「他人のやりかたを真似る」ことを通して社内で継承されていった、さらにその作業に従事した者が新会社を興すなり他社に移るなりして各所に広がっていたものと想像している)。

だからといってこの刻印の使用会社のアテがあるわけではない。泉南の旧深日村に深日煉瓦工場というものがあったが明治30年の資料に一度出現するだけの工場だ。なおかつこの30年という年は府下各地に煉瓦工場が筍立するものの操業非創業不明のまま消えていくという年でもある(そのようなパンデミックが起こった理由は不明。日清戦争の終結により産業が復調し設備投資が増えた結果煉瓦の需要が増したとは考えられるがそれにしても明治30年という1年にだけ煉瓦工場設立が相次いだことを説明するものにはならない)。そもそも深日であって日深ではない。さらにルートを否定すれば「日」かどうかも断言できないのだった。横長長方形を二分割した記号である可能性を否定し猿もとい否定し去ることはできない。

府下工場の刻印は後年になるほど長手前が一般的になる。和歌山煉瓦も長手前であった。小口前なのはYEGAWAや丹治煉瓦など初期に|初期から稼働していた工場のものに多い(ただしすべてが小口前というわけではない。阪府授産所のように小口前長手前が混在しているうえ小口に押されたものさえある始末な製造所もある<これは煉瓦製造の揺籃期に製造手順を試行錯誤しながら作っていたことを意味する不統一ではなかろうか)。明治後期には製造手順が洗練され「このように作るのがよい」というのが確立してどの工場も似たような手順で煉瓦を製造していたーーーそのためどの煉瓦も斉しく裏溝を有するようになったと考えられるのだ。

なおこの煉瓦があった場所には和歌山煉瓦や無刻印の角丸異形煉瓦も転がっていた。称名寺は近年3つに分割相続されたとかで区画の一隅を真新しい民家が占めていたりする。煉瓦は旧称名寺の名残なのかも知れない。

画像の説明

付近の在所ではやはり岩橋煉瓦の井桁印をよく目撃した。大字栗栖の浄土寺の西方では焼損の岩橋煉瓦を数十個使った小花壇を見つけたし、民家の煙突の付け根にある空気穴というか掃除穴というかな穴の蓋に井桁刻印を見たりもした。煉瓦工場のあった地域に特定の刻印が分布する傾向は跡地訪問を重ねるごとに明白になっている。

[煉瓦刻印] 岸和田煉瓦(イロハ添印付)

煉瓦刻印 岸和田煉瓦 添印附

そうはいうもののもちろん地産煉瓦以外も見られるわけで、例えば称名寺の東数軒隣の家跡(コンクリート敷の空間に車庫らしき倉庫と小さな地蔵堂が建っている)に岸和田煉瓦刻印を多数見た。家屋の基礎であったのか家の周りの敷石であったのかは不明だが今でも地面の一部を占有している。このキシレン煉瓦にはイロハの添印があり写真の「井」のほかに「ウ」や「ホ」などもあったと記憶する。添え印が付いている場合は小口前が多いのは注意しなければならない(それが古いものであると断言するためにではなくキシレン添印付にそのような傾向があることを忘れないために)。

以前に一度書いたはずだがキシレンのイロハ添印は一筋縄ではいかない。同じイロハでも「イ」であったり「井」であったりする。

[煉瓦工場] 岩橋煉瓦製造所3

ようやく終わりが見えてきた。田井ノ瀬駅まで足を伸ばし何もない駅ホームでカメラ6台で電車の離合やら何やらを撮影しているマニアを他所目に古い駅舎の痕跡が全くといっていいほど残っていない現状を確認し嘆息したあと大字岩橋に戻ってきた。行きしに通らなかった北方の在所を自転車で走っている最中、空き地の奥まったところにある民家壁がそこけ煉瓦製であるのを発見。濫觴の煉瓦屋塀宅はまた別の民家だが壁の作りには共通するものが感じられた。特に頭が勾配付きであるところなど。

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成程煉瓦工場のあった町だけはあると一人合点し写真を撮っている私に向かって「何かいいもんでもあるかいね」と声をかけてくられた方があった。「あはは、すみません、あそこだけ煉瓦壁なのが面白くて。この上にも立派な煉瓦壁がありましたね」そんなこんなでまたRDF発動である。

煉瓦工場の話を切り出すとそれに応じて様々なことを語って下さった。以下重要事項を箇条書き。

・岩橋煉瓦のあたりにはよく遊びに行った。田んぼの底土を取ってきて足で踏んでこねたり、型枠に詰めてワイヤーで小引いているのを見たことがある。 煙突の数や窯の規模などは憶えてへんなあ。

・岩橋ブロックKKの社長は3代目。煉瓦製造していた頃のことは知らんかもしらん。

・上の屋敷は岩橋煉瓦の親戚の家 。(ということは全くの無関係というわけでもないのだな)

煉瓦作りを目にしておられると聞いて裏溝のことを聞こうかと思ったけれども逡巡の末に諦めた。説明がどうにも難しいし作業に携わった方でないのだからそこまでご存知ではないだろうと判断したからだ。それはそれで正解だったと思う。かわりに工場付近で採取した刻印入り煉瓦をお見せし多少の歓心を得ることができた。この煉瓦の裏側がもう少し綺麗で溝がはっきりしていたらごにょごにょお話できたかも知れないな、惜しいことをしたなと今更勿体なく思ったりしている。

「そんなことを調べて雑誌に載せるんかい?」と聞かれたのが妙に印象に残っている。そうかそういう言い繕い方もあるのだなと思うと同時に観光案内刊行物の刊行が盛んな和歌山であればこその問いかけだと思ったりもした。地地に来てあれこれ調べ回っているような人間はるるぶまっぷるじゃらんその他の旅行雑誌の取材者くらいなのではないか。特に和歌山県という土地では。観光地観光物に乏しく大局交通からも隔離された位置にある和歌山県のかえって観光客誘致に熱心なさまは傍から見ていてハラハラするほどだ。そのくせ観光客は相変わらず和歌山のごく一部をチラ見して帰りがけに和歌山ラーメンでも食べて納得行くような行かないような顔をして去っていくのが関の山である。ここはそんなうすっぺらい県ではないのだが。うすっぺらでないが故に全体把握も掘り下げも容易でない。それを何とかしようとして様々な観光政策が取られているにも関わらず空回りして苦労している県という印象がある。

かくいう私も和歌山県のことを知り尽くしている訳では決してないし帰りに井出商店で食って帰ったクチなんだけどね。とんこつしょうゆベースのラーメンは良くも悪くも地元の普段食という感じがした。遠方からわざわざ食べに行くほど美味いものではなく、むしろそういう食を普段食としている和歌山市民の気分に浸る楽しさのほうが忘れがたい印象になった。これも考えてみれば不思議なことだ。札幌でラーメンを食べても札幌市民になった気はしなかった。喜多方ラーメンも同様だ。観光客向けに作られた観光用のラーメンであるという先入観があるせいだろうか。和歌山ラーメンだってこれという定番はなく素因数分解して得られる最大公約数がとんこつしょうゆ味というばかりであって「観光用に作られたブランド」という点においては他と変わるところがないはずどころか他を凌ぐ急拵え度であるのにだ。

地元のソウルフードを楽しんだ感が得られたという点では中津の唐揚げに近い。あそこも急拵えなブランドではあるけれども食自体は地域に深く根差している。各地区に一つは唐揚げ屋があり(というより肉屋が副業的にやっているところが多くいわゆる唐揚げ専門店はそう多くない)ずいぶん昔から親しまれている食べ物であるのは間違いない。我が家の近くにも中津で修行したという唐揚げ屋があって小さい頃から馴染みの店だった。冠婚葬祭帰省お盆正月クリスマスとイベントのごとにkg単位で唐揚げを買っていた気がする。そこから逆算すれば30年以上前から中津唐揚げという文化が存在したことになる。そうして確かに地元唐揚げ屋と同じ味を中津でも味わったのだった。ああまたふじやの唐揚げが食いてえなあ、と気がつけばずいぶん遠い地点に着地している。

[独言] 終わるまで終わったけど荒ぶる猫を見てなごんでください

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井出商店の駐車場にいた猫である。首輪をしていたので近くの家の飼い猫だろうと思う。久しぶりに猫を触った。それを嫌がって首を回しているのではない。

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[] 筒井康隆『虚人たち』

250円の文庫を買わずに300円の単行本を買ってしまった辺りに重症度が現れている。耐えて読んでいると一定時間経過後急に理解速度があがってそれ以降頭が宇宙ゴマになってしまう。感染源はやはりここだったのだなと再認識。昭和56年初版。

余談だが中公文庫の刷り数表記は間違いやすい。中央公論社時代の肌色背表紙のものは「○版」表記、新社になってからは同じ体裁を取りつつ刷数表記になっている。初版のみ「印刷/初版」、増刷すると「○版/○刷」。

[奇妙なポテンシャル] 寄っていこうか

画像の説明 そういう会話をする夫婦が現在はもちろん過去にも存在しただろうかという疑問が発端である。現にこれが存在する以上、そして店の顔たる看板に宣伝文句として書かれている以上観た者の共感を誘いこの会話の通りに行動してもらいたいからこそこのような掛け合いを書いたのだろうとは想像できる。それがダサいだの有り得へんなどというのは過去への感情移入が不足している証拠だ。まずそれは脇においておく必要がある。

昔はこういう態の謳い文句を掲げた店が多かった。「飲んで歌って踊れる店(踊れるはなかったかも知らぬ)」「皆様のスーパーマーケット」「いい品をより安く」「いつもニコニコ現金払い」等々。今の店の表面からはそれが欠落している。マ キャッチフレーズとして存在してはいるがわざわざ看板に掲げる店は少なくなった。 クドナルドがそのMマークの下に「ビーフ100%のおいしさ」とか「アメリカンテイストのお店」とか添えていたら逆に違和感だろう。

という感じに反例を考えていたら逆に今でもそういうものを掲げている店が結構な数あることに思い至った。能書きの多いラーメン屋とか焼肉屋とかあるじゃないか。いかに心をこめて作っているか上等な食材を使っているか炭は最高級の国産炭だの何だの真か嘘か確認しようのない能書きを長々とでかでかと書いてあるあの店だ。すでに背景画像の一部に成り下がっていて誰にも読まれることがないであろうそんな能書きに比べればまだ読む気にもなり一度読んだら忘れられない寿し仁のこの看板は優れていると思う。

現今の能書き看板とこの看板とで決定的に違うのは主張のベクトルである。矢印の尖り具合いとその向きである。いかに美味い料理を提供しているかをストレートに延々と主張するだけの能書き看板に対しこの看板は「うちは美味い」と断言することがない。街角で起こり得る夫婦の会話に託して「寄ってみいひん?」と誘っているだけである。柔和な主張である。商業主義全盛時代に生き購買意欲をのべつ幕無く刺激され続けて辟易している私たちにとってはかえって後者のような優しい主張のほうが受け入れやすいように思う。「そんな会話があるもんかいな」と思いつつ含む苦笑に親しみや共感の成分が混入していたりしないだろうか。

そうはいうものの、これが創業当時にいま私が感じるほどのインパクトがあったかと問われれば答えに窮する。現今の能書き看板が主張を全面に押し出しているせいでかえって読まれないでいるのと同様、当時はただの書き物としか思われていず気に留める人もいなかったという可能性は捨て切れない。他がやっていることを真似ただけであってこの店独自のスタイルではなかったかも知れずいわゆる「一周回って新しい」段階に過ぎないことも考えられる。

いずれにしてもこのポテンシャルは差異から生じるものである。現在の能書き看板との差異、それに対して時代々々の人々が感じる感情の差異。普段見過ごしているものの中に奇妙なポテンシャルを拾う行為は畢竟そんな差異を探し出しどこに差異を感じたかを記録して周回遅れを是認する行為であるといえる。そして差異とは比較対象があって初めて生じるものであり絶対的に優れた主張やそれ単独で効果が期待され100年色褪せない主張というのは有り得ない。もし世の中が再びこのような看板を求める頃になったとして、再び私がこの看板を目にした時、もはやそこには奇妙なポテンシャルのかけらすら存在していないだろう。

どうでもよいことだが、小さい頃「テナント」という言葉をこの庇を指していう言葉だと思っていた。だってテントに使いそうな丈夫なシートじゃないか。


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