nagajisの日不定記。
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ふだん何気なく見ているもの・聞いているものが奇妙な変形をしたときに「おもしろさ」を感じる。済ましたお嬢さんが屁をこくとか威厳高々のおっさんのヅラは取れたとかいうときの意外性。「ふとんがふっとんだ」という、聞き慣れたことばの組み合わせの意外性。「ふとん」も「ふっとぶ」もそれ単体では面白くもないが二つ組み合わさった時に生じる第三の意味に意外性を感じ、笑うことができる。これ即ち、常識からわずかにズレたところに着眼することから生じる面白さである。
「面白い」という感情を煎じて煮詰めていけば「快」の刺激であるだろう。腹が立つムカムカすることを面白いとは思わない。そうして人間は原理的に「快」の感情を好む。「快」を感じること、「面白い」を追求した結果が、言語であり恊働であり技術であり現代社会であるんじゃないか。
その間の変化が決して一足飛びでないのは、「ちょっとずれた興味」を「面白いもの」として追求し続けた結果ではないか。δfの積み重ねによるものではないか。核融合炉が完成していない時点でそれ以上のエネルギー源を発現することはできないだろうし(想像することはできるにしても)携帯電話に金を払っているうちはテレパシーなど発達すまい。時おり突拍子もない発明があったりするとはいえ、やはり身近な何かから発生した「隣接する何か」であるだろう。前の例もあまり相応しくない。セロテープの代わりにウドバヘリンとか豆を挽かなくても飲めるホヌールとかいうようなものは出て来ない。そんな感じ。
「ちょっとしたずれ」に「快」を感じるのは神経回路網の開閉とそれによって生じる微弱電流と関係有るのかも知れない。「ちょっとずれたもの」のほうが脳の中でもなんとなく近いところにありそうで、そういうのだから繋がりやすく(開路を形成しやすく)、そうして繋がった回路にシグナルが周ることで「快」を感じるようにできているのかも知れない。思いもよらぬものが繋がった時のおかしさは脳内遠方の記憶領域同士が繋がった特殊な状態ゆえに[面白い」が深かったりゲラゲラ笑ったりするのかもしれない。ただそんな遠方との連絡は万人に同様に起こるわけではないだろうから「新しいものは理解されるのに時間が掛かる」とか「新しいものは醜いので理解されない」とかいったピカソの言葉のごとくな状況を生み出す。岡本太郎の絵だってリアルタイムで見ていた者にはわかりづらいところがあった。勢いがあるというばかりで「良さ」を感じなかった(子供だったのもあるだろうし)。けれどもいまそれを見てみた時には大きな「快」を感じてこういうのを芸術というのだろうなあと思う。しかしそれも岡本太郎の作品を自身の歴史の中に取り込んで捉えているから「すこしずれたもの」に見えるだけなのかも知れない。要は「見慣れたもの」との対比で捉えられるようになったからであるかも知れない(そうしてどんな「見慣れたもの」とも合致しない美がある故にuniqueなもものと理解されるようになったわけであるかも知れない)。そうして今度はそれを原点としてδfを求めるようになり、自分はまあ無理だとしても、そこからまた別の異なる新しいものを生み出す人が現れていくことだろう。そんなことの積み重ね。バロック音楽からいきなりヘヴィーメタルは生まれない。
「お約束」を少し傾けてみること。角を削ってそこに草を生やしてみること。「お約束」の周りだけでやっていれば多分ずっと世間に近くでいられる。削った角から生やした草の先に花を咲かせてその蜜を集めて蜂蜜を作ったりし始めると世間と乖離し始める。「お約束」に依存せずとも「快」を究めることはできるはずで、そうして周縁部へ周縁部へと向かっていき続ければnagajisになるわけだ。自分の「快」のみ追求していけば彼岸の彼方にだって宇宙にだって行ける。それを良しとしない人だけが人の域に留まって世の発展に尽くすことができるのだろう。他に誰も興味を抱かないでっかいΔfを踏んでいる私はただそれだけの存在である。
てな感じのことを昨晩寝ながら考えていたのだけれども、はて、本当にこんな感じだったかしらん。もっと根本原理っぽいことを気づいた気がするんだがな。それに自他不二の事事無礙法界が絡んできたごちぁる。異にして同、の中におけるnagajisの立ち位置と考えた時に、結局のところ同の方向へ進んだところで同は同であってなんもない。異の方向にδfを尖らせたほうが同の総体としてδf増える。そうしてどんなにがんばってもδfにしかならない。それで構わない。そういうもの。
世の中の他人を全くの他人と見れば生きづらい。それを自分のある面を反映する鏡だと見れば、結構冷静になれる。いきがっているヤンキーの兄ちゃんも、自分が抱く自尊心を拡大解釈濃縮還元したものと見ればなるほどなと思われる。子供っぽい言動で困らせる人、同じ話題を繰り返して飽きない人、常に怒りをぶちまけている人。自分が抱く同じ感情の延長線上のものと考えると別段苦にならないというかスルーできるというか。その延長を試みることが即ち事事無礙なりし法界なんではないかしらん。同情、ともちょっと違うな、そう理解すること。δfを測ること。無縁のものと突き放すから快くないわけだ。
土曜日に歩き回ったのが日曜日を透過して今日まで続いている感じ。そんなに足を使ったかなあと首をかしげるような行程だったしむしろ運動量としては先週いっぱいの復旧活動のほうが体を使っていると思うのだけれども。まるで筋肉痛が翌々日に発生したような状況ではある。しかし傷みは筋肉痛らしくない。単にパンパンに張っているだけのよう。今まであまり感じたことのない類の疲労感。
荷もそんなに重くなかったし(後半は煉瓦1個積んでいたが)。等比級数的に廊下が進んでいるのだろうか。動く歩道的な。えっさほいさ駆け続けないと土間まで押し流されそうだ。
あ、あれ塗って毟っとかないと…そのために風呂入ったのにもう足が乾いてしまった。