nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
『丹波史談』第8号の記述をもとに南桑煉瓦のコアとなる文書の閲覧を申請し閲覧しに行ったのだが、また核心に至れなかった。山田理一郎氏や山田晋一氏が「大切に」と書き添えてまでして残していた南桑煉瓦関係書類の中に肝心な文書が欠けている。5,煉瓦請負契約書、7,煉瓦石請負契約書訂正願、8,右に対する返信、など……。それがいちばん読みたかったのに。
もともと『丹波史談』は山り文書が亀岡市に寄贈されるよりはるか昔の昭和25年に調査執筆されたものなので、その時にはあったものが後年散逸してしまったか、別のカテゴリの資料として分類されて別簿冊に入っている可能性がある(閲覧できたのは原本を撮影した画像を印刷製本した冊子で、南桑煉瓦関係書類と書かれた封筒に収められていたらしい書類が収録された2冊だけだった。それぞれ237・238とナンバリングされていたので数百冊はこういうのがあるのだと思う)。
そうはいってもおいそれとは引き下がれないので、必死になって簿冊を読み解き、結果、『丹波史談』に拾われていないが核心にかなり近い資料をいくつか発掘することができた。最も重要なのが上の一枚。M30.7.27に南桑煉瓦と京都鉄道の間で交わされた契約書「直段書」の写しと思われるものである。
これを読むと、南桑煉瓦が京都鉄道に売り込む前から作っていたのは「長七寸壱巾参寸四分厚一寸七分」という寸法だったことがわかる。他の文書で既成煉瓦を「並形」と呼んでいるものがあったので、南桑はこれを並形煉瓦のつもりで作っていたこともわかった。その既成品は「40万個」の契約で買い上げとなり、それとは別に300万個の契約が交わされたが、その300万個については京都鉄道が提示した寸法で作ることになっていた。型枠を改良してそれを納入しなければならなくなったのだ。このへんは山り日記の解読からも判明している。
そうしてその300万個に要求された寸法は「別紙の通り」とあって、その別紙が複製されていないのだった。泣きそうになった。けれども、その次のページを見ると、別紙の反転画像らしきものが写っているのに気づいた。別紙の部分が見開き一枚分飛ばされていて、その裏側がこれなのだろう。
反転させると赤枠。「焼上ケ寸法」「一長九吋」「一巾四吋四分ノ一」「一厚弐吋四分ノ一」、焼過は厚弐吋八分(ノ一)ともある。要するに 9 x 4-1/4 x 2-1/4 ins.というインチ規格の煉瓦を要求されたらしいのだった。
南桑が製造していた並形’は1141.6 cc、京都鉄道が要求した煉瓦は1410.3 cc で、焼き上がり体積で1.24倍大きい。ということは一個あたりの原土の量もそれだけ多く必要になる。それを焼くための薪代も嵩むし、もちろん型枠を作り直す必要もあるわけである(そうして1個当たりの単価は既成品と同じ1銭4厘)。南桑は並形’で収支を見積もっていたから、契約のとおりに進めれば当然アカが出ることになるわけだ。
つまるところ、これが南桑煉瓦の失敗の最大要因であり、煉瓦規格が乱立していたために起こった齟齬だった。規格乱立の弊害の実例なわけだ。あるいは交渉にあたった山りの判断ミスと言えるかも知れない。京都鉄道のいう煉瓦が既成品の1.24倍の体積になることをその場で見抜いていれば単価を上げるなりなんなり交渉できただろう。
ともかく山りがこれで契約を交わしてしまったことが後々まで響くことになる。煉瓦単価を上げることとか寸法規格規定を融通緩和してもらうようにと願出を重ね(これが見つからなかった7,8,9の資料)、解約するのしないのの騒ぎになったりした。最終的には契約履行を断念し、会社の役員の一人・植田石之助が個人で契約を引き継ぎ納入を続けることになる(M30.11.27 238収録のソ-24-7)。南桑煉瓦が受注した300万個が契約解除になったというのはそのことを指したものだったわけだ(契約直後の解約騒動は元の鞘に収まっているby山り日記。その後数ヶ月は製造を続け、12月に契約解除→植田へ引き継ぎなのである)。既成品や改良型枠で作った煉瓦;他資料に数十万個の製造記録あり は植田の手によって京都鉄道に納入されている。少なくとも計70万個以上。
確かに京都鉄道の構造物に使われた煉瓦は複数の寸法がある。トロッコ亀岡駅の東にある鵜ノ川橋梁の煉瓦などは各個計測で7-2-5 x 3-4-5 x 1-7-0 寸と計測しているので、これが南桑煉瓦初期の並形’に違いない。嵐山方亀山トンネルの東口の隧道前擁壁なども薄く見えた。トロッコ亀岡駅下の暗渠の煉瓦はほぼ 9 x 4-1/4 x 2-3/8 ins.、これが京都鉄道の意図した規格の煉瓦と思われ(旭商社製?)、隧道の覆工にはこのタイプの厚みのある煉瓦が使われていることを通り抜けざまに確認した。測っちゃいないけどな。一方で田中源太郎の楽々荘に使われている京都鉄道社章印の煉瓦は7-2-5 x 3-4-5 x 1-8-5 寸という体系で、9 x 4-1/4 x 2-1/4 ins. よりも一回り小さい。おそらく監獄則煉瓦の型枠を流用したもので、それが300万個契約以降の南桑煉瓦や植田が作った改良煉瓦と考えていいと思う。『丹波史談』掲載で今回発見できなかった文書では規格の融通緩和が認められたことになっているから、必要最小限の改良を加え、9 x 4-1/4 x 2-1/4 ins.よりは小さめな煉瓦による納入が認められたのではないか(これも隧道に使われていることと思うが、通り抜けざまじゃ長手長まで判断できないからな……)。
そういうところまで推測できるようになった。しかしその推測を立証する肝心の文書が見つからなかったわけで、また断定できないところが残ってしまったわけである。だから嵯峨駅で亀山トンネルの煉瓦を測る必要があったのだが……。遠いなあ。まことに遠い。測れば多分9インチあるはず。