nagajisの日不定記。
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雨なる為教練は体操に変更。勉強に勉強す。一生懸命勉強した。能率は上りたるだろう。修身事業の始、笑いたる者ある為五十分間座して授業をなす。笑う人間・私語する人間は弱いのだ。必要のみ語る人間は強き事を知る。
〔欄外朱:然り〕
5月30日(土)開催。10時頃から17時頃まで佐和山隧道にいますんで好きな時間にご参加・好きな時間にお帰りください。nagajisはぶら下がってます(場合によっては東側にいるかも知れません)。なのでおもてなしはないものとお考え下さい。
場所リンク
注意事項
閉塞点へ上陸する時に必ず濡れます。ドロドロになります&洗う水は隧道に溜まってる水以外にありません。
ボートは2人乗り、カヤック形のゴムボートです。
閉塞点に取り残される事態となった場合、nagajisは嘆き悲しむ以外に何もできません。
以上。前もって連絡くだされば廃道本やらCDやらステッカーやらを持っていきます。購読料のお支払いも受け付けまする。<それが目的かッ
プロローグで随分煽った割には淡々と書き進めている五社峠。実はまだ、どういう構成でルポを書くか悩んでいる。複数回の訪問を時系列順複救回に分けて書いたほうが(自分にとって)分かりやすく、謎解きの楽しさもあるように思う一方、五社峠周辺なら五社峠周辺だけで一章にまとめてしまったほうが(読者的理解のしやすさ的に)良さそうにも思う。今は前者のつもりで書き進めているが、一通り書き終わった段階で考え直すかも知れない。今のままでは余りに平板だし、写真もいまいち不足しているし、何より土倉との関わりを深く考えないままの探索だったし。かといって後者にすると五社峠周辺だけでかなりのネタを消費することになるからなあ・・・。いや、ネタを消費するのが嫌なのではなく、文量が増えることと、時系列がごっちゃになりそうなのが問題。ともかく何かの工夫が必要。
仏坂峠を密かに書き溜め、書き終わっていたりするのもちと悩み所。体裁が現状の東熊野街道と被っている。
そのうえ「喪われた〜」まで書き始めていたりする。ルポを書き分けるのがいちばん大変だというのに。考え無しの助。誰も喜ばんだろ。
この2枚も狙って揃えたものではない。異なる場所で道路橋の絵葉書を探していて購入し、偶然揃ったものだ。上の葉書を先に見ていて、2枚目を見つけたときに「このボーストリングトラスかっこええなあ、そういえば神影橋って見た事あるなあ、あれ買っとけば良かったなあ」と思って購入したところ、実は1枚目も購入していたという。そんな感じの適当な捕獲である。
金光教の総本山の前に架けられた橋。上が初代?の橋で鉄管柱橋脚の木桁橋。下が2代目?のものでピン接合のボーストリングトラスだ。ピンでボーストリングというと「廃3」でtaiheiさんが書いてくださった木谷原橋(ドイツ製輸入プレファブ)を思い出すが、これがその系統なのかはわからない。斜材が棒鋼になっているから多分違うのだろう。
JSCE-Lib.の橋梁年表によれば初代橋?は1893年(明治26)もしくは1907(明治40)架設。二代目?は1921(大正10)。いまは1969(昭和44)架設の新橋になっているそうだ。
橋の絵葉書については土木学会図書館のデジタルアーカイブスに大量収録されているから、そこにないものをと思って上記2枚を購入したつもりだったのだが、同じ葉書がしっかり収録されているうえに撮影角度が異なるものが4種類くらいある。さすがだ。。。対抗しようとかコレクションとかのつもりで買い始めるときりがないので、安くで売っている時にピンと来たものをてきとうに入手するスタンスでいこう。特に橋なんかはJSCE-Lib.の充実度にかなわない。
寝るタイミングを逃した・・・徹夜して今頃眠い。
彩色絵葉書は綺麗に仕上がると味があっていいのだが、これはむしろ着色とでも評すべき雑さで、美的価値は低い。100円でなければ買っていなかっただろう。しかし貴重な明治隧道(改修あり)の写真である。
箕面の滝の上にあるやつ。当初は素掘りだったがいつの頃からか欠円アーチがついて「大日嶽隧道」と呼ばれるようになった。その頃の絵葉書。南口だ。正面からの写真は以前明治隧道@大阪府をやったときに使った資料にある(実はその構図の絵葉書も存在する。持ってないけど)。
今は歩行者専用のボックスカルバートトンネルだが、その上に「箕面隧道」の扁額がついたCポータルと、擁壁の裏に高さ制限の旧標識が残っていることを、たぶん誰も知らないはずだ。どうでもいいが旧標識の最もよく撮れた写真は上書きして消してしまった。残念。再撮に行くほどでもないし、またあの恥ずかしい思いをしなければならないのはちょっと考えもの。
いま気づいたが「TheMinomo‐Park」になってるな。間違いなのか、そういうものだったのか。
増田淳の橋梁図面が見れなくなってる。。。これは困ったぞ。早く十三大橋書いとくべきだった。
http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2006/draw/sample/ZumenSample4.htm
『窯業銘鑑』大正13年版より引用。
呉で見られる「ヤシノミ」の流れ来たる源に違いない。
しかし工場通覧では全く顔を出さない工場である。大日本商工録に何度か出てくる程度。昭和期にはすでに廃業か。
亀山発電所の亀甲+山は「亀山」を意味するものかも知れない。とすると無関係だなあ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/529
煉瓦製造は、安政四年に幕府長崎に製鉄所を設けた際、瓦屋に命じて焼かしめたのを以て創始といわれている。明治になってからは二年に造幣局の建築起工に際し、用材として製造された。当時瓦製造師として有名であった東湊の瓦屋藤吉に用命した。藤吉は大阪諸藩用達仁屋松之助の助力を得、造幣局の雇英人キンドル Thomas William Kinder. から製造術を伝習し、初めて堺製の煉瓦を製造したのである。(小澤扶公氏談話筆記)次いで三年工部省鉄道寮が、当時民部省の所属であった住吉橋通二丁目旧箱館会所跡に煉瓦製造所を設け、京都府、兵庫県の陶器職工、屋根瓦職工を招いて製造法を教え、囚徒等を使役して盛んに製造した。斯様に煉瓦製造地として堺が第一に着目せられたのは、此附近に煉瓦の原料となる良質の粘土が産出したからである。当時焼窯は陶器職が慣用していた登り窯三座を築き一座を八室乃至十室とし、土練は足蹈、白地は手押式に依り、型は木枠を用い、風日に乾燥せしめた。此堺製の煉瓦は普通の二、四、八型(二寸、四寸、八寸)で広島で製造していた山陽型より小さかった。其後六年になって此製造所は原口仲太郎に払下げられた。(鉄道一瞥) 政府が工場を設立して以来此新工業に従事するもの相踵ぎ、就中舳松村の瓦師丹治利右衛門は其率先者であった。同家は屋根瓦製造を業としていたが、三年少林寺町引接寺跡に工場を建設した。かく製造は漸く其緒に就いたが主に官衙用に供せられたのみで、未だ一般世人の需要を喚起する迄には至らなかった。(丹治利右衛門煉瓦業沿革、大阪府市、第三回内国勧業博覧会出品解説書)
堺市史第三編 pp.884-885
この段の前の方に箱館会所の記事がある。住吉橋二丁目北・南。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/563
煉瓦は十五、六年頃より盛んに製造され、次で十七、八年に至っては鉄道敷設工事や紡績会社を初め、其他諸会社の勃興により官私両方面に需要が激増したので製造工場も次第に増加し、二十一年には九個所を数うるに至った。(堺史料類纂工業之部)
p.945
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/676
窯業では煉瓦、土管、硝子、琺瑯鉄器の製造を数えることが出来る。煉瓦は明治二十一年を最盛期として、其後衰微に傾き、二十四年其極度に達したが、二十七、八年戦役後頽勢を挽回し、其間大阪窯業株式会社堺分工場、日本煉瓦株式会社、堺煉瓦株式会社、丹治煉瓦製造所等の製造所が並立して堺煉瓦の全盛時代を作った。新機械を輸入して製法に改善が加えられたのも此時の事である。其中大阪窯業株式会社堺分工場が規模最大であった。同社は大阪に本社を有し、二十九年一月南附洲新田に堺分工場が設けられた。三十七、八年戦役以後は販路の拡張となり、満鮮地方に盛んに輸出され、米国よりの注文を見る程活況を呈して来た。(堺資料類纂工業之部、大阪毎日新聞堺周報)
p.1151-
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899286/54
附録 鉄道瑣談
○煉瓦創製の事
東京横浜間創業の際には世に煉瓦製造者なく又沿線附近に佳良の粘土なければ創製すること容易ならず、依て石材のみ使用したり、大阪神戸地方にも最初煉瓦製造者ある筈なきも堺附近に恰好の粘土産出し且つ燃料として紀州地方より松薪を得ること容易なれば鉄道寮は此の地に煉瓦創製の計画を立てたり
堺大浜通に旧幕府に属せし函館物産会所の廃邸あり、周囲広闊にして掘割を以て港口に通し小船出入の便あり、当時堺県の所轄なりしが鉄道寮其の引継を受け之に煉瓦製造所を設けたるは明治三年某月なり、製造の主任者は中属長谷川彦兵衛にして大属原川魁助庶務を総理し製造総指揮者は傭外国人にして外に数十名の官員従業し従来当地の屋根瓦製造業者たりし丹治長蔵なる者職工長として勤務せり、当時煉瓦製造を知るものなきを以て鉄道寮は京都府、兵庫県へ照会して管内の陶器職工又は屋根瓦職工を命令的に堺に召集し傭外国人之に製造法を教授したり、窯は陶器職が慣用せし登り窯三座を築き一座は八室乃至十室にして白地一万二三千枚を容るに足れり、土煉は足蹈にして白地は手押式に依り型は木枠を用い風日に乾燥せしむ、粘土は製造所を距る十町乃至二十町の万代八幡辺にて採取し胴木は紀州又は四国産を集め差木は赤穂の小割材を用いたり、粘土質は佳良なるを以て形状正しく且つ堅緻にして石を凌ぐ如きものを製すを得、品位は三等に分ち上中下とせり、而して製品は小帆船を以て大阪、尼ヶ崎、西宮、神戸に運搬し各建設所に車力を以て配給せり
明治五年の秋中属岡崎正作、権少属村井正利の二人堺製造所勤務となり従来の官員は概ね転免せられ只二三の等外吏をとどめたり、是れ従業員多きに過ぎ経費嵩むを以て冗員を淘汰し製造所の経済を維持せんが為めなり、爾来岡崎、村井の二人之が経営の任に当りしが村井(後鉄道属、事務官は一介の漢学書生にして煉瓦の知識あらざりしも前に東京府に奉職して教育所掛に勤務し稍々細民の事情を解し之を使うに慣れたれば専ら職工に接触して製造法を究め火度火色の判断に熟するに至り監督肯綮を得て漸次経費も節減し得たり、後明治一九年東海道線起工に際し江尻、金谷、中泉の三箇所に煉瓦工場を設け沼津天龍間に遅滞なく供給したる成績は明治五年の堺に於ける経験に基くものと村井自ら常に語れり
明治六年の夏に至り堺煉瓦製造所払下の議寮内に起り鹿児島県人永井庄右衛門、原口亀太郎の両人に地所建物機械一切を払下げ製品は必要に応じ時々買上ぐることと成れり、是より先中属岡崎正作は本寮に還り少属宇都宮正信代って来任したりしが払下決定の命に接し村井と共に他に転じたり
pp.55-56
MLAY…MLAY!
大阪府各省局官員録. 明治11年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779121/34 前年のでは正則になってる。
前々からやってみたかった、煉瓦の小割標本を作ってみる。献体となってくれたのは堺煉瓦”キ”印入の手成形煉瓦。けっこう丁寧に作られた緻密なものである。叩くと金属音がする。
レンガタガネを使って縦横に割った。横半分に割って半枡を作り、その半枡を縦に割り、さらにそれを半分に割ってサイコロと上下スライスを試みた。最後にやったスライスは失敗したが…それ以外はなかなか上手くいったと思っている。あ、ここでは平に筋が入っているほうを「裏」あるいは「底」、入ってない平滑なほうを「表」と呼ぶ。写真の側が「表」だ。
半枡の断面。思っていたほど斑が入っていなくて、粘土の動きがわかりづらいが 、長手と底はその面に沿って層をなしている。特に底は、わずかに入っている斑が薄く引き伸ばされたようになっているのに注目。型枠内に叩き込んだ粘土塊が作業台面に接してグニューっと押しひしがれたのがわかる。長手の層も似たような傾向があるが底ほど明瞭でない。
煉瓦の芯は縦横が混じっているが、表に向かうにつれて縦方向の層が顕著となる(空隙の伸びる方向を追いかけたほうがわかりやすいかも知れない)。そして底隅には結構大きな空洞がある。ここは粘土が行き渡りづらいのか、それとも力がかかりにくいため焼くと剥離してしまうのか。
半枡を縦半分に割った断面。右が小口。半枡断面とさほど変わらないが、小口〜底の層の連続が半枡ほど明瞭でなく、分厚く繋がっていくように見える。そして中央に近いほど底の層が明瞭で、かつ薄く引き伸ばされている(=中央から小口に向かって押し広げられたからか)。
それをさらに半分に割ってサイコロ状にしたのも作ってみたが、半枡の断面とそれほど変わらない感じだったので写真を撮り損ねた。底隅に目立つ空隙はなく連続的であった気がする。
もう一方の1/2半枡を表裏にスライスしようとして失敗した。小口側はうまく割れたが途中で表へ抜けてしまった。まあ、これはこれで面白い。中央から表にかけてを連続的に見れる。
失敗の原因は半枡断面からの打ち込みが不足していたためと思われる。どうしてもでこぼこした断面になってしまうので、単に打っただけでは凸のところにしか力がかからない。刃のあたるラインのところだけでもきれいに整えておいてから打ち込んだほうが良さそうだ。あるいは細いタガネでこまごま打ち込んでおくか。そうしたつもりなんだけどまだ足りなかったらしい。
表裏割は長手のしわに沿う形で表に抜けてしまった。考えてみればこのしわ、押し込んだ方向に弓なりになってるんじゃなくて、その反対を向いている。もいちど成因を考えたほうがよさげだ。
_ 謎の自衛官 [佐和山か・・・・余裕があれば装備を持って行きます。]
_ nagajis [おひとりさまご案内〜。よろしくお願いします。]
_ みつ [土曜は奈良でキャンプ予定ですが 時間がとれたら寄らせてもらいます。]