nagajisの日不定記。
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昨日の痛いづこへか去り元気回復し休〔体〕操・教練・剣術皆なしたり。数週間の好天気にて地カラカラとなり葉よごれいるなり。
平常通り授業あり。誕生日会にして十三時十分より補副官 山田耕作大尉殿の命課布達式あり。体操剣術あり。特に元気無しとて注意を受く。要領として声に力を入れて発する事肝要なり。
意気あれば腕弱くとも必ず相手をたふすものなり。被服の取入れ整頓に誠に忙しき日なりたり。内務・時間厳守・敬礼を特に克くなすべし。
6日のPM8:00に始まって,7日AM4:00まで続いたチャット.振り返ってみて,まず,30人近くもの方が集ってくれたことに感謝を申し上げたい.ORJをやっているとどうしても一方的な意思疎通になってしまって,自分の考えがどう相手に伝わっているか(相手がどう思っているか),相手がどんな考えをしているのかが解りづらい.そのためにアンケートを設置しているけれども,それも一方通行だから,何だか間延びしたキャッチボールのようになってしまうのが歯痒かった.
そんな思いもあって,前々からチャットで聞きたいと思っていた.それがこういう形で実現したこと,それが予想以上の反響で,みなさんが真摯に考えて下さっていることがわかって嬉しかった.
結果からすれば,編集部(というよりもnagajis?)の考えの甘さを露呈することになったけれども,それでいいと思う(これは開き直りではなくて).
「ORJですでに書いてきたこと」を前提として話を進めてしまったこと.
ORJの第5号でNPO化にあたっての問題点,NPO化して何をするか,等を書いたつもりでいて,それを大前提として話を進めてしまった.ORJのスタンスも,これまで5号続けてきたなかで語った気になっている.よくないことだ.
編集部内でも3カ月近く前からこのことを考えていて,実際にどんな活動をするのか?NPO化することで自分を縛ることになるが,それでもいいのか?といったことを話し合ってきた.そのうえで「NPOやりたい!」という結論に達して,提言に至っている.ただその過程を見せられていない状態で,聞かされた人は,誤解するに決まっている.
「NPO化ありき」で話を進めてしまったこと.
いくら私たちが「NPO作るぞ!」といったところで,賛同して下さる方がいないことには始まらない.そもそも廃道あるきでNPOなんて可能なのだろうか───当然自分達は可能だと思っているけれども,たった3人の意見だ───,という不安もあった.まずはこのチャットで「NPO作れるんじゃない?」という提案をして,それに対する意見を聞きたかった.しかし話の流れに流されて,特に前半が「NPO化するから参加者を募るチャット」みたいになってしまったと思う.これは自分がうまく司会進行を勤められなかったところに非がある.あくまでも今は「NPOどうよ?」という段階に過ぎない.
法人化することで何が良くなるのか? 法人化しなければならない必然性は? それを明確にできていないことが判明したこと.例え個人であっても社会貢献できない訳ではないから,任意団体として働きかけていくことは可能だ.そこに「飛び道具」としてNPOを持ってこようとしたところに甘さがある.
帰って風呂に入った後爆睡してしまったために帰宅報告が遅くなってしまった。無事帰ってます。帰るまでがオブローディングと言われているが(誰が?などというツッコミは不粋)、まあ誰も心配してはいないだろう。和歌山フェリーが沈没することも南海電車が脱線することもなく帰宅している。マフ巻さんところへの挨拶もまだだ。早くしよ。
ふと日本土木学会図書館の土木デジタルアーカイブスを覗いてみると、戦前名著百選が補完されているッ! しかも本邦道路橋集覧とか田辺朔朗のとんねるとか読んでみたかった本がかなりの数ラインナップされとーるッ! それはまあnagajisくらいしか喜ばないかも知れないが、鉄道省編の日本鉄道史上中下年表なんて喜ぶ人多数なのではないかしらん。ご苦労さまです、そして感謝!>土木学会図書館さま。しかし今からが忙しくなるんだよなー...
出典:三重県令達全書[第2冊]前集(自明治8年1月至明治12年12月)
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788789/192
○地甲第五十六号 九年十一月十二日達 区戸長
河港道路等級廃置の義に付別紙第一号の通公達に依り東海道外十一道を除くの外第二号調製概則及図面雛形に照準各区(安濃以北は一小区)限り取調来る十二月限り可差出此旨相達候事
(別紙第一号=太政官達五十九号、六十号)
第二号
道路調製概則
第一則 此雛形は道路の等級に従い其路線の分類を明示せん為仮に里道の等級に関するものを模書するものにして道路の分類を明瞭ならしむるに在り故に各区に於ては其路線の断続分合に従之が分類等級を詳細謄記し遺漏なきを要す第二則 里道一等は彼是の数区を貫通し或は甲村より乙村に達し又は甲の分郷より乙の分郷に達する等人民一般に関する線路は皆此の分類たるべし
同二等右一等道路を除くの外用悪水堤防牧畜坑山製作所等の為人民協議に依り別段設けたるものにて他の人民一般に関せざる道路はこの分類たるべし
同三等右一二等を除き田畑耕耘の為或は神社仏閣等へのみ往来するものを皆この分類に取調べし
但一人一己の為に設置するものは此限にあらず
右三等の内一道にして数種を兼ぬるものは遠く其路線の亘及する所を審にし其類の重に従て符号を施し支道の如きも又其達する所の地位に依て等級を可定事第三則
東海道 桑名郡桑名より鈴鹿郡阪下まで
同街道 鈴鹿郡関より奄芸郡大部田村迄
伊賀街道 津本庁より伊賀国上野迄
初瀬街道 一志郡三渡より伊賀国安部田村迄
鳥羽街道 度会郡山田より志摩国鳥羽まで
奈良街道 一志郡中林村より安濃郡五百ノ村迄
伊勢街道 三重郡日永村追分より度会郡山田まで
和歌山街道 飯高郡松坂より同郡高見峠まで
大和街道 鈴鹿郡関より伊賀国島ヶ原迄
熊野街道 度会郡山田より紀州成川村まで
名張街道 伊賀国上野より同薮持村まで
和歌山街道 多気郡野中村より飯高郡粥見村まで
以上十二道は図中の符号に従い朱線を施すのみにて別に調るに不及
(第四〜第八則省略)
(原文旧字カナを新字かなに変更。第三則街道一覧の同街道は後の伊勢別街道、2つ目の和歌山街道は和歌山別街道)
里道の現況調査を目的としたもの。後に国県道となる12道を「別に調るに不及」として除外している。この時点では明確に県道(仮定県道)とは定義されていない。
なお『明治九年三重県治概表』では「街道」として「東海道・伊勢街道・同・和歌山街道・伊賀街道・大和街道・初瀬街道・熊野街道・鳥羽街道・名張街道」の10道を挙げている。
三重県史[第1冊]上編(大正7年)P567 より引用。三重県令達全書には収録されていない。
道路取締規則(明治十二年十二月二十七日発令、十三年三月一日より実施)
第一条 道路は左の個所に限る 東海道 伊勢街道 伊勢別街道 和歌山街道 伊賀街道 大和街道 初瀬街道 熊野街道 鳥羽街道 奈良街道 和歌山別街道 名張街道
以下は全町村の道路を指す 桑名 長島 四日市 菰野 神戸 亀山 一身田 津 松坂 山田 宇治 □□ □羽 上野 梁瀬
(第二条以下略)
(原文旧字カナを新字かなに変更。□は印刷カスレ)
明治15年頃、「仮称国道」「仮称県道」という言葉が使われている。明治9年太政官布達60号が出て、明治18年国道表が告示されるまでは、どちらも「仮定」だった。言われてみれば当たり前の話。
三重県会史第一巻より。「土木改正法諮問」と題されている。討議の結果取り消し線・斜体の変更が加えられたうえで可決し「土木費支弁法」となる。
土木改正法案
第一条 河港を分て一等二等三等四等とすその区分別表の如し第二条 道路を分て一等二等とす其区分別表の如し但橋梁は各其道路に属す(略)
第四条 道路橋梁費は左の各項に依り地方税を以て支弁し若くは之を補助す第一項 一等道路の内桑名、四日市、津、松阪、山田、宇治、上野(伊賀)及之に連続する場所の工費は両側宅地前は三分ノ二片側宅地前は三分ノ一を其宅地持主の負担とし其残額は地方税より支弁す第二項 一等道路の内第一項の場所を除くの外は其工費両側宅地前は六分の二片側宅地前は六分の一を其宅地持主の負担とし其残額は地方税より支弁す第三項 一等道路の内宅地前を除くの外並に橋梁の工費は渾て地方税より支弁す第四項 二等の道路は地価千分の一半以内の工費は之を補助せず其超過の分にして地価六十分ノ一以内の工費は地価千分ノ一半を引去り其残額十分ノ五を地方税より補助す其地価六十分ノ一を超過する工費は地価千分ノ一半及残額十分ノ五を引去り其残額は渾て地方税より補助す第五項 二等道路の橋梁は地元町村地価千分の一半以内の工費は之を補助せず其の超過の分にして地価六十分ノ一以内の工費は地価千分ノ一半及六十分に対する十分ノ四を引去り其残額十分ノ六を地方税より補助す其地価六十分ノ一を超過する工費は地価千分ノ一半及六十分に対する十分ノ四を引去り其残額は渾て地方税より補助す
但橋巾四尺未満且平坪十坪未満のものは補助するの限にあらず尚別表に掲げざるものと雖も里道(一等)に属する橋梁にして橋巾四尺以上且平坪拾坪以上のものは之を補助す別表
一等(国県道)
東海道 伊勢街道 美濃街道 四日市港道 伊勢別街道 大和街道
伊賀街道 久居道 奈良街道 初瀬街道 大口港道 和歌山街道
和歌山別街道 熊野街道 神社港道 鳥羽街道 名張街道二等(里道)
- 濃州道
- 桑名より員弁郡古田村を経て美濃国土岐郷に至る
- 前ヶ須道
- 桑名より長嶋を経て前ヶ須に至る
- 員弁道
- 朝明郡羽津村より大矢知村を経て員弁郡楚原村に至る
- 坂井道
- 桑名郡糠田村より南大社村を経て新町村に至る
- 美濃道
- 員弁郡楚原村より吉野村を経桑名郡柚井村にて美濃街道に達す
- 桑名道
朝明郡大矢知村より桑名郡桑部村を経て桑名に至る
三重郡菰野村より朝明郡大矢知村を経て東海道松寺に至る田光道
八風道朝明郡富田一色村より大鐘村を経て田光村に至る
朝明郡富田一色村より山城村を経て八風峠に至る- 菰野道
- 四日市より三重郡智積村を経て菰野村に至る
- 釆女道
- 三重郡釆女村より鈴鹿郡大野村を経て江州大川原村に至る
- 千草道
四日市より三重郡坂部村を経て千草村に至る
四日市より三重郡坂部村赤水村潤田村を経て千草村に至る- 水沢道
三重郡釆女村より山田村を経て水沢村に至る
東海道日永村より室山村を経て水沢村に至る- 若松道
- 鈴鹿郡和田村より河曲郡神戸に至る又河曲郡肥田村より千代崎港に至る
- 白子道
- 白子より鈴鹿郡平野村にて若松道に接す
- 神戸道
奄芸郡上野村より稲生村等を経て神戸にて伊勢街道に達す
河曲郡下箕田村より神戸鈴鹿郡甲斐村高宮村原村を経て三畑村に至る- 庄野道
神戸より鈴鹿郡甲斐村高宮村を経て両尾村に至る
奄芸郡上野村より稲生村を経て鈴鹿郡庄野村に至る- 巡見道
- 亀山より三重郡菰野村員弁郡石榑[元字・手偏に専+、]村等を経て川合村にて濃州道に接す
- 下街道
- 白子より河曲郡若松村等を経て四日市新町に至る
- 亀山道
- 奄芸郡椋本村より亀山に至る
- 蛭谷道
- 奄芸郡磯山村より徳田村を経て鈴鹿郡林村にて伊勢別街道に達す
- 一身田道
- 奄芸郡小川村より一身田村を経て大古曽村にて伊勢別街道に達す
- 椋本道
- 安濃郡古川村より曽根村等を経て奄芸郡椋本村にて伊勢別街道に達す
- 河内道
- 安濃郡曽根村より北神山村河内村を経て伊賀街道上阿波村に至る
- 矢野道
- 津藤江町より一志郡矢野村を経て中道村にて伊勢街道に達す
- 矢下道
- 一志郡権現前村より上小川村を経て中街道に至る
- 鬼瘤道
- 一志郡稲葉村より榊原村山田郡友生村等を経て上野に至る
- 大村道
- 安濃郡岩田村より半田村を経て一志郡戸木にて奈良街道に達し又同村より大村にて初瀬街道に達す
- 多気道
- 久居より下ノ川村を経て中街道に至る
- 八知道
- 一志郡大村より八知村を経て奥津村にて中街道に接す
- 松崎道
- 一志郡三渡村より松崎港に至る
- 蘭道
- 松坂西町より伊勢寺村を経て一志郡多気に出て中街道に至る
- 熊野別街道
- 松坂湊町より多気郡相可村等を経て新田村にて熊野街道に達す
- 相可道
- 多気郡竹川村より飯野郡浜田村を経て相可村に至る
- 中街道
- 田丸より飯高郡小片野村に至る又同郡横野村より一志郡杉平村を経て大和国神末村に至る
- 大湊道
松坂より飯野郡西黒部村多気郡大淀村を経て大湊港に至る
松坂より飯野郡佐久米村多気郡前野村大淀村を経て大湊港に至る- 御糸道
多気郡斎宮村より東黒部村に至る
多気郡斎宮村より藤原村を経て東黒部村に至る- 田丸道
- 多気郡斎宮村より度会郡田辺村にて中街道に接す
- 川俣道
- 多気郡上之瀬村より天ヶ瀬村を経て飯高郡七日市村にて和歌山街道に達す
- 南嶋道
- 山田より度会郡駒ヶ野村を経て[立心偏+造][手偏+丙]浦に至る
- 五ヶ所道
- 宇治より度会郡床ノ木村切原村を経て五ヶ所浦に至る
- 二見道
- 山田倭町より度会郡久志本村を経て江村に至る
- 水口道
- 阿拝郡佐那具村より内保村を経て近江国野川村に至る
- 田川道
- 阿拝郡上柘植村より近江国五反田村に至る
- 多羅尾道
- 上野より阿拝郡西山村を経て近江国多羅尾に至る
- 阿保道
- 上野より阿拝郡佐那具を経て伊賀郡別府村にて初瀬街道に達す
- 小波田越
- 名張より伊賀郡小波田村を経て羽根村にて初瀬街道に達す
- 出後道
- 伊賀郡新田村より市部村上友生村喰代村を経て伊賀街道に至る
- 石打道
- 上野より伊賀郡白樫村を経て大和国石内村に至る
- 笠置道
- 伊賀郡界外村より治田村を経て山城国笠置に至る
- 太良生越
- 名張より一志郡太郎生村を経て石名原村にて中街道に接す
- 山田道
- 阿拝郡佐那具村より一ノ宮村を経て寺田村にて伊賀街道に達す
- 的矢道
- 答志郡松尾村より的矢港に至る
- 濱嶋道
鳥羽より答志郡上ノ郷村英虞郡鵜方村等を経て濱嶋港に至る
鳥羽より答志郡上ノ郷村穴川村迫子村を経て濱嶋港に至る- 前嶋道
宇治より答志郡恵利原村国府村等を経て英虞郡波切村に至る
宇治より答志郡恵利原村鵜方村波切村を経て御座村に至る- 熊野道
- 答志郡恵利原村より度会郡神津佐村古和浦等を経て崎村にて熊野街道に達す
- 大杉道
- 多気郡天ヶ瀬村より大杉村に至る
- 北山道
- 南牟婁郡木ノ本浦より神山村桃崎村等を経て大和国吉野郡川口村に至る
- 十津川道
- 南牟婁郡阿田和村より上野村小川口村を経て大和国十津川郷に至る
- 本宮道
- 南牟婁郡北桧杖村より浅里村小舟村を経て東牟婁郡日足村に至る
- 長嶋道
- 多気郡桧原村より北牟婁郡大原村を経て長嶋浦に至る
- 伊勢島道
- 北牟婁郡二郷浦より錦浦を経て度会郡古和浦に至る
- 北山道
- 北牟婁郡相賀村より便ノ山村を経て吉野郡出口村に至る
- 上野道 南牟婁郡有馬村より神木村を経て上野村にて十津川道に接す
- 大和道
- 北牟婁郡上野村より川瀬村丸山村を経て大井村に至る
明治20年より実施。ここでようやく三重県道が明文化された。(ただし、それ以前から仮定県道〇〇街道という言い方はなされている)
[資] 明治22年三重県:明治二十二年度議事録・和歌山街道改修
町村土木補助費第一次会。濃州道、大杉道、五ケ所道ほか六道に対する土木補助費についての審議。和歌山街道はこの時の補助対象ではない。
一万二千八百五十二円七十二銭五厘
五番村井曰 議按外の事なれども番外の説明を煩はさん和歌山街道の改修費は二十一年度に於て決議せしが其れは斎宮に属する部分なりし然して東部の方は二十年度に改修の事を決議せしに未だ落成するに至らず実に該道路今日の有様を見れば旧道は既に破壊し新道は未だ落成せず恰も道路なしと云うも可なる程なり思うに此の如き有様に陥りしは測量の失誤又は工費の不足によりしものなるべし然るに本年度の議案に道路を組込まざりしは如何なる理由なるか番外一番伊藤曰 和歌山道の改修は二十年度に於て東部の費用を決議し二十一年度に於て西部の費用を議決せり而して東部に在ては測量の不十分なりしによるか今日に至るも未だ竣工せずして甚だ困難の場合に遭遇し居るなり又西部の落成せざるは畢竟東部と連続するか為なりとす尚東部に付ては目下其の処分を詮議中にして其の取調も粗ほ出来せしが事甚だ錯雑に渉れるを以て詳細は追て[釦-金+手]所に於て説明すべし明治22年頃
その後も何度か町村土木費補助。明治21年or22年に21年度追加予算で和歌山道東部(飯高郡大黒田村より同郡粥見村に至る)の道路改修。明治22年度追加予算に和歌山道、南島道、小波田道の改修。明治23年度土木費「粥見村の砂利置費を、二十四年度の通常費を流用して施工する事とし、総て砂利上置を二寸と修正」等で減額。明治27年度市町村土木補助費「和歌山街道富永、七日市、宮本の工事中、上置の砂利を半減」等で減額。明治28年度道路費「和歌山街道中、森村外三箇所」削減、「和歌山街道中、波瀬は正腹に面する分のみの修繕に止め」る等で減額。
[独言] 大見坂
横野−粥見間に「欠の浦」の難所。明治22年頃に松阪−横野までが改修され馬車が入るようになるが、欠の浦は人馬道をつけるに留まり、以西に馬車が入ることはなかった(27、28年度は「修繕」)。全改修されたのはいつ?<飯高町郷土史
大見坂の位置が不明。三重県の歴史街道のpdfでは現国道と同じルート。対岸にも大規模な崖道があり近畿自然歩道になっているが。伊勢街道/和歌山街道の歴史の道調査報告書を確認しておくこと(@府立or市立)
結局路線の付け替え時期不明…三重県広報をちまちま見ていかんといかんのか。土木費支弁法の次の改正は明治27年度。
[独言] ふむ
http://www.pref.mie.jp/PDF2/KENKOHO/M26/T-M260321-00583.pdf
を発見し県会史25年度を見て辻褄が合いかけたのだが、統計書に戻ってきたところで大事なことを見逃しているのに気づく。明治20〜25年の統計書の「道路」はすべて20年調になっている。だから明治26年に変化があったとは限らない。確かに、明治26年度通常会(明治25年実施)で土木費支弁法の改正が決まっているが、この時県道に関しては新たに濃州街道、新濃州街道、贄崎港道等が追加されただけだ。
三重県会史第一巻を見た限りでは付け替えに関する話題が見当たらなかった。広報から探すなら明治20年〜明治25年までの広報を虱潰しに当たるしかない。開通を考慮に入れれば23〜25まで絞れるが、しかしなー。見つかったところで何が変わるというものでもない。
明治22年、明治23年8月〜27年1月迄済。そのものは出て来ず。かわりに別件純粋良資料を発見。
[資] 明治22年三重県:三重県広報第二百二十五号
明治20年前後の道路改修費用対効果。(明治二十二年六月四日)
http://www.pref.mie.jp/PDF2/KENKOHO/M22/T-M220604-00225.pdf
○道路改修事項
本県管内道路の改修は曩(のう)年来漸次起工し其竣成せし路線の地方に於ては直接に間接に其実益を見ること少々ならざるに依り近年に至ては頻繁起工の計画あり其里道の如きは改修工費の若干を地方税より補助するものとなせり爾来着々歩を進め或は阪路を避けて平坦に就き或は屈曲を直線にし道幅を取広め之を車道に改良し支線は之を本線に接続せしむる等既に全線の竣成せしものあり或は之を継続事業とし其全線の幾部分を竣成せしものあり 仍ち其結果実益の一班を見るが為め既に竣成せし最近のものの内に就き其改修前後に対し物品の運搬費及び車数並に土地売買の価格等を取調たるに概ね左表の如し
名称 路線 延長 旧道幅
新道幅旧勾配
新勾配改修着手年月
落成年月工費計(円) 費途区分(円) 仮定県道大和街道 伊勢国鈴鹿郡新所村東海道より分岐し大和国添上郡奈良に達す 5里4丁40間 6尺〜12尺
14尺1尺5寸以内
2寸以内19年3月
21年4月12,421.000 地方税3,142.000
寄付金9,279.000同 名張街道 伊賀国阿拝郡上野大和街道より分岐し同国名張郡蔵持村にて初瀬街道に接す 3里25丁19間 6尺〜12尺
12尺1尺5寸以内
3寸以内20年10月
21年4月5,601.000 地方税5,071.000
寄付金530.000同 熊野街道 伊勢国飯高郡松阪町和歌山街道より分岐し紀伊国東牟婁郡新宮に達す 39里15丁55間 6尺〜12尺
9尺〜12尺3尺以内
3寸2分以内19年6月
21年7月50,228.000 寄付金50,228.000 里道 濃州街道 伊勢国桑名郡桑名東海道より分岐し美濃国土岐郷に達す 2里7丁1尺2寸 6尺〜10尺
12尺1尺5寸以内
2寸4分21年1月
21年6月1,209.000 地方税補助380.000
村費849.000同 員弁道 伊勢国朝明郡羽津村東海道より分岐し同国員弁郡楚原村に至る 2里1丁7間5尺4寸 4尺〜10尺
12尺2尺以内
2寸4分21年1月
21年6月3,391.000 地方税補助1036.000
村費及寄付金2,355.000同 千草道 伊勢国三重郡四日市東海道より分岐し同郡千草村に至る 3里30丁2間3尺 5尺〜10尺
10尺〜12尺2尺以内
2寸4分21年1月
21年4月2,801.000 地方税補助 802,00
寄付金1,999.000同 新海道 伊賀国阿拝郡上柘植村大和街道より分岐し近江国三雲駅に達す 22丁 3尺〜6尺
18尺2尺以内
2寸4分21年2月
21年4月1,502.000 地方税補助466,000
寄付金1,094.000同 大杉道 伊勢国多気郡上三瀬村より分岐しし同郡大杉村に至る 1里25丁29間 4尺〜6尺
7尺2尺以内
3寸21年1月
21年6月3,689.000 地方税補助1,229.000
寄付金2,460.000同 大阪道 紀伊国南牟婁郡小阪村にて熊野街道より分岐し大和国吉野郡川口村に達す 3里28丁28間3尺 3尺〜6尺
12尺2尺5寸以内
3寸以内21年4月
21年6月5,431.000 地方税補助1,629.000
村費3,802.000(※nagajis注:漢数字をアラビア数字に、乃至=>〜に変更)
品目 大和街道 名張街道 熊野街道 濃州道 員弁道 千草道 新海道 大杉道 大阪道 米 改修前 2.1 2.6 8.9 1.8 1.8 1.3 2.2 5.5 28 改修後 1.2 1.9 5.5 1.6 1.6 1.3 1.4 3.5 18 麦 改修前 2.1 2.4 8.6 1.5 1.5 1.2 2.1 5.1 28 改修後 1.2 1.8 5.6 1.3 1.3 1.2 1.3 3.2 18 茶 改修前 2.9 3.5 8.8 2.5 2.5 1.3 2.8 9.3 12 改修後 1.7 2.4 5.2 2.3 2.3 1.3 1.9 5.5 6 木材 改修前 5.7 9.1 10 4.4 4.6 7.7 6.3 27 ○ 改修後 3.7 8.4 6.4 4 4.2 7.7 4.3 15.5 ○ 石材 改修前 3.8 3.6 7.9 2.2 2.3 1.2 3.6 ○ ○ 改修後 2.1 2.8 5 2 2.1 1.2 2.1 ○ ○ 山 改修前 421.5 25.5 82.4 ○ ○ 300 543 145 20 改修後 740.5 325.5 282.4 ○ ○ 300 941 170 22 耕地 改修前 3941.5 2789.4 2634.7 ○ ○ 3012.5 5383 2350 2200 改修後 4441.5 2876.8 2803.1 ○ ○ 3012.5 5383 2600 2400 人力車 改修前 99輌 52輌 262輌 19輌 19輌 7輌 ○ 6輌 ○ 改修後 136輌 52輌 301輌 15輌 15輌 8輌 ○ 13輌 10輌 荷車 改修前 711輌 502輌 449輌 628輌 898輌 834輌 ○ 9輌 ○ 改修後 1235輌 665輌 1449輌 770輌 1055輌 1017輌 ○ 61輌 174輌 (※nagajis注:単位は特記なき限り銭)
備考
一本表米麦は一俵茶は一箱木材は尺〆一本石材は一才の各一里当り賃金山及耕地は一反歩の実価にして車は改修後の欄に於ては改修前の数をも掲ぐ
一本表中改修後に於て人力車の減ずるは該取締規則発布に拠る
一本表中大和街道に於て改修後馬車を新調せしもの三輌ありと雖も少数なるを以て更に掲載せず
一本表中新海道に於て車数を掲げざるは同路線は大和街道へ連絡するものにして全く同線路に使用する分と区分し難きによる
(原文旧字カナ漢数字=>新字かなアラビア数字に変更)
紅葉はきれいだったが、収穫はいまいちの上(KINIAS的には上の中か)。そういう水路導線であるとは気がつかなかった。&一度水田になっていたことを見抜けなかった。
儚い跡であるがゆえに記録して残しておく必要がある。
きょうはしんどい・・・。収穫が少ない時ほど疲れは出るものだ。I先生のほうがたいへんだっただろうけど。
思っていた以上に盛況。卑下でも韜晦でもなく盛況。1日目にして所定の用をかなり達成した。ご来場下さった皆様ありがとうございました。でもまだ続くのである。
http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20140617#p01
明治44年頃の西の煉瓦。大正の始め頃なんて嘘ついてもうた。
舞鶴要塞の話は建部山堡塁。やっぱり記憶力が低下してるなあ。
明治35年頃の煉瓦にしては非常に均質なよい土を使っている。この頃の府下の煉瓦は斑が入ったようになっているか、砂とは呼べないような大粒の石が混じっていることが多い。大阪窯業の機械成形(機械練り)が明治34年で、それでもここまで均質かどうかと思う。
それが神崎周辺に見られる手成形煉瓦の質とよく似ている。ほとんど純粘土かというような均質な土。
nagajs好き放題に会場を使うの図。受付をしろと。
今日初めて加太隧道煉瓦の拓本を取ったのだが全然乾いてくれなくて参った。他の煉瓦は水から揚げて和紙を貼って5分もしないうちに生乾きになるんだけれども加太隧道4番は30分以上濡れっぱなしで採択できなかった。んで話し込んでいるうちに乾いてしまって、慌てて霧吹きしてまた乾かなくて、を繰り返すこと数次。水を吸収しないわけではないはずなのだ。素焼きの肌だし割れているし 。焼過の□+漢字のほうがもっと早く乾く。水を取り込んで離さないというイメージ。こういうのは初めてかも知れない。タルイの化粧煉瓦とか日成産業「日」などは水を吸わなくて苦労するがそれともちょっと違う。 吸水率が異常に高くて水を大量に取り込んでいるとも考えられなくもないが、菱Wなんかは水に漬けた上で霧吹きしてもその傍から染み込んでいくしなぁ。よくわからん。けれどもこれが土質焼き加減の違いによるものだったらそれはそれで刻印のない場合の分別に使えそうでもある。
一見同じ土質のように見えて、粘土の粒度とか焼成の温度と含有物とかで分子配列レベルの構成が違ってくるのかも知れぬ。酸性かアルカリ性か、とかもあったりするんだろうか。水酸基が多く存在してるから水分子取り込みやすいとか。まさかね。
五光は見た目の鮮明さに反して拓りにくい。印が深く押されているため&縁がかなりマクレている。粘度が高い抜き出し直後ではなく若干乾燥させてから打ったように見える。
原稿をすっとばしつつ写真を貼り終える。前回「北陸本線」より少し短くなる感じだ。煉瓦サイズの件は最後にまとめて書くことにするが現時点では結論を持っていない(むろん流れは決めてあるけどデータがそのとおりであるかどうかは確認しておらなんだ)。大丈夫なんだろうか。いつものことだけれども。
これともう一つ短編を加えるつもりだが、旧橋だと前号とまったく同じ構成になってしまうし、かといって定点観測は長すぎるし……。悩ましいところ。1本ではなく2本書けたら万々歳なんだろうが、多分そんな余裕はない。(<一応150号だということは気にしているのである。50号の時は記念企画をやった。100号の時は馬鹿みたいに書いた。だから150号は淡々とすすめるつもりでいるのだけれどもやる気がないと思われるのはこう見えて癪である。まあいいか、重ねた年に一喜一憂してはしゃぐようなお年頃でないことは確かなのだし、なによりそういうのはようやく手に入れた今の立ち位置にそぐわないのさ)。
ああ、送りつけるの忘れてる。
毛虫のせいで頭強打したり7年越しに謎が解決しなかった直後に代替ルートに目処をつけたりと慌ただしい昨日だったはずなのだがあっという間に書き尽くして睡眠前を持て余している。今まで過ごしてした年月も振り返ってみればそんな波乱万丈浮沈連続であったようにも思うしその割に身になってない気もする。よくわからない。何かをやり遂げたという達成感を得るために何かをやっているつもりがないのがいかんのかな。漠然と浮いたり沈んだりするばかり、要するにその場その場の場当たりあんでのらくら交わしてきただけなんかも知れぬ。まーでも楽しくなかったわけでもないし、こんなちゃらんぽらんな生き方でも生きてこれたってのは一つの奇跡だろうし。願わくばあといくつか、もうすこしだけ体系だった知識を積み上げておきたいものだがなぁ。多くは望むべくもなし。
喜び勇んで埼玉県文書館に電話したら「改装中で来年4月まで閉館中」と言われた。また、おあずけかよお。ちゅうかホームページで電話番号確認したんならその隣にでかでかと掲げられてある休館のお知らせに気づけってんだ>nagajis。ばーかばーか。
未来に「やりたいこと」があるのはいいことだ。実現困難な夢とか虚妄の欲望とかでなく、その時まで待てば解決するという「やりたいこと」なら。それがいきるはりあいになるから。その時になって初めて付図がついていないことがわかって失望してもよし。それだけでも「半年間待たされた挙句」うんたらかんたらという一行がかけるんだぜ。良い経験になるだぜ。
行きつけのスーパーの寿司のタイムセールの開始の時間が繰りの延べになったらしい(膠着)。いつも行くタイミングでは未だ定額で売られていて購入を断念するということがここ数日続いている。涼しくなったんだからそりゃそうだろうが、食いたいと思ったものが食えないのは心外なことだ。結局また焼きそばになった。
平素そんなに体を動かしていないんだから大量に食わなくてもいいはずなのだが何故か知らないが腹が減る。焼きそばも2玉がデフォルトになり決まっている。年々歳々燃費が悪くなり続けているのは確実な事実で、ブクブク太ったりしていないことだけがせめてもの救いでは有るけれども逆になんかの病気なんじゃねえかと思ったりしないでもない。2、3食断食してみてはどうか>nagajis。
_ ヨッキれん [ 当日はお疲れ様&ご参加の皆様ありがとうございました。 反省点を含め、感じたことは編集長と右に同じです。 加えて、個人的な発言が多かったことも反省。 以後、自重します。 ちなみに、言い訳になるけど..]