nagajisの日不定記。
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唱歌は五十分音楽のレコードの鑑賞ありたり。剣術はわずかの進歩をみとむるなり。随意運動時は極めて有効に用いたり。夕食後切磋会取止めの為五六人集りて品田の話を聞く。人を笑わす品田の話はいと面白し。一日中特に変わった事なく平凡な日なりき。
近日寒さには何とも思わざる如くなりぬ。耐うれば耐えらるゝものなり。寒しと思えば何をなさんにも出来ず。故に気力のみ剛健にして持久性に富めば冬は何事なく愉快に過せるものなり。今日を以て動物は完全に終了し愈〃鉱物となりぬ。刻々と後期前半の授業も終了し愉快なり。思えばあと五十時間に非ずや。作業二時間小銃の掩体構築をなす。之こそ真の作業なるかと感ず。汗を流す此の労働戦場の将兵必死の作業を想う。かゝるもの須く物にすべし。個人訓育あり。後期前半大体に於て努めたりと。然し我々は前期程なさず心に不足を感ず。未だヽ余地あり。頑張るべし。内務をよくすべしと。益〃がんばり人のレベルに追いつかん。否それ以上に。頗る良好なり。
ミニレポと旧橋の原稿を書いている。それぞれで違うテンションに挑戦してみているけれども、ガラッと変わることも、読みやすくなることもなく、nagajis臭さはどこまでも抜け切れない。困っている。
自分の書いた文章を自分で判断することができない。読みやすいのかそうでないのか、意味が通じるのか意味不明なのか。この表現の取捨選択は正しいのだろうか。そういう悩みを悩みながら書き続けていると、どんどんドツボにはまっていって、句読点の位置であるとかてにおはであるとかまでが気になってくる。そうなるとますます書きにくくなってしまううえ、出来上がったものが何回扱くな難解至極なものになってしまうことは、少なくともわかってきた。そういう状態を打破するためにもまるっきり違うテイストで書いてみるのは益があると思っている。書いて気を紛らわせるというか、気分転換するというか。
そのかわり「自分の文章」というものがいつまでたっても決まらない。読む側にとっても一人の人間が書く文章のタッチがバラバラだと得体の知れない不安感を感じるのではないか。そう言った口がコレ書くか、みたいな(いや、口で書くものではないのだけど)。実際この部録"も通して読み返してみると恐ろしく波があって独りでいたたまれなくなる。
実際のところそういう情緒不安定な人間なのだから仕方ないのかも知れない。自身の感性というか信念というか、そういったものが確立されていないのだろうと思う(隧道に対して畏敬の念を覚えることもあれば、笑いの対象として捉えたくなったりもするし)。立派な大人とは全然言えないが、自分としてはそれで良いと思っている。いつまでも新しい発見をしたいし、出会いに一喜一憂したいし、臨機応変に自由な発想ができる柔らかな脳みそであり続けたいと思う。
なので読者の皆様におかれましては、nagajisが書いたなどとは思わず、文章そのものがそこにあるものとして個々の記事をお楽しみいただければ幸いだ。心からそう願ってやまない。
そこで奇妙なポテンシャルですよ。YouTubeには敦賀港フェリーターミナルとして上げてしまったが、あとで確認した日付時刻からすると秋田のフェリーターミナルかその船中で撮影したものだと思う。
全然ダメなカメラワークで申し訳ないが、これを見て(便器が写っている動画という以外に)何か引っ掛かるものを感じ取ることができたならば、あなたも一人前の「奇妙なポテンシャリスト」である。頑張らずに読み解いていただきたい。そうして悩んでいただきたい。私は未だにわからない。
JIS男にジョジョ立ちをさせてみようと思ったのだが速攻断念した。
少し不安に思っていた「流れ」がまとまりそうな塩梅。というより前号東熊野のパクリなんじゃねと思ったりする。まあいいか。
思ったよりも長くなりそうだ・・・。というよりも絵的にきれいなのがいくつもあるので使いたくてうずうずする。後半しばらくは紙芝居で過ごそうと思う。(jisメモ:ここに独白を入れる)
ここへ来て、あの場所の保安林指定に大きな意味があったんじゃないかと思い始めた。確認するためには明治40年改訂の森林法を手に入れて理解しなければならない。大丈夫なのか。前半で少し端折ったからもう一度解説しなければならなくなるが。
かからねばかからねばと思いつつ心の準備しか出来てねえ。
2編いただいている。これは年末までにpdf化しまするのでお待ち下さい>お二方。
そういえば先日本棚を片付けたのだった。所詮この位しかない我が本棚。左へゆくほどショッパくなる。
このなかに自己啓発本ビジネス本の類いが1冊しかないのは小さな自慢である。人でなしには用のない本だからな。ついでにいうとPINEAPPLE ARMYしか漫画はない。さあどうだうははと書いてnagajisを貶めておく。ざまあみろ>nagajis
改めて気づく。この中で定価で買ったものは数えるほどしかない。廃道本とか廃道をゆくとか鉄道と煉瓦とか峠本の2、3とか。残りは全部古本だ。あ、ツーリングマップも違うか・・・
そういえばと思いバックナンバーを見直してみると、第2号(2005年8月発行号)に当時の本棚の写真があった。見比べてみると左端の本棚は殆ど変わっていない。その後4年でたったこれだけしか読んでいないということになる。
なんでこんなにツンデレんだ。もとい詰んでるんだ。踏んでるでも可。フンボルトはペンギン。そういう茶々を入れないとやっていけない。
今は笑いが解決してくれる時ではない。炭酸飲料水の喉越しではなく乾きから解き放ってくれる水がほしい。水であればいい。雨の直後の濁った沢水でも油の浮いたヘドロ水でもいい。水が、ほしい。ヒーリングではなくキュアがほしい。この右足で立てる治癒がほしい。そして、そういうふうに世の中はなっていない。それが求められてもいないのだよ>nagajis
(別にどこかから文句がきたわけではないぞ)
(疲れたのでなんか書いて寝ようと思ったらこうなっただけだ)
昨日今日の話ではなく、ここ一週間ほどの間。果てしなく長く、終わる見込みのない、しかも現状では発表することのできない原稿を書き直している。見込みはなくても終わらせなければという焦燥感ドリブンな手入れだ。いやそうじゃないか、書き終えてあれしたら局面が変わるかも知れないと一縷の望みを託した手入れだ。ケガをする直前に手に入れてきた情報とその後の情報を追記しなければならないがそこまでも至っていない。追記してもまた現地へ行かなければなるまい。そうしたところでカオスが週末になるだけだが。いろいろ無駄だ。
パズルのピースは揃ってるんだ。頭の中じゃ絵柄が完成してるんだ。けれどもその、完成に至った経路が需要なのに(重要なことにしているのに)それを忘れてしまった。どの順番で組み合わせたら完成したのか。何が何に対応するのか。それで何がわかったのか。どこまで言えるのか。その推測が正しいのか。書き漏らしは、過分はないのか。そういうことを練り回す無駄に興じている。それで傑作ができれば世話はなく、というか今度こそ自分のためだけの原稿にしてしまわなければならぬ。
よく通る割に知らないところが多かった奈良盆地南部(大和高田、御所、高取、葛城)を自転車で回ってきた。要は道路元標と天皇陵参拝道を片付けるためだったのだが、それ以外の収穫が同程度以上あって中々面白い一日になった。昨日はその後片付けをばしておった。
しかし、何でこう、説明の必要な物件ばかり見つかるのだろうか。写真一枚で被写体のすべてがわかるような、誰もが納得してくれるような物件がひとつもない。そもそもnagajisの写真が悪いというご意見は甘んじて受けるか無視する。
2002.6.12撮影。 一充電で100枚くらいしか撮れなかったS6900zのくせにこんな写真を残している10年前のnagajisが謎。確か「一文字だと縦看板なのか横看板なのかわからんよな」と思って撮った覚えがある。余計に謎である。
2012.12.20撮影。いま見てもちょっと反応してしまう。しかしローマ字表記があるということは横看板だよなということで10年越しに解決した。10年前のnagajisの目が節穴なことがここでもまた立証された。
しかし雪国等で縦にしなければならない場合はどうするのだろうか。半角文字の回転で入れるのだろうか。横看板のくせに縦の辺のほうが長くないか。
本日の収穫。四天王寺さんの何度もチェックしているはずの出店にて発掘した。ネクタイピンである。
左端に発電所記号があることでまず目についたのだが、その右に刻まれている種々のものが、最初はよくわからなかった。「GORYU.T」という文字列があり、さらに3つ「NAKAGOSHO.T」「KITAGOSO.T」「KUROKAWA.T」と並記されていて、それらを結ぶように文字の土台が盛り上がっている。
はじめは単なる装飾かと思ったのだが、そうではなかった。ちゃんと意味がある。これはトンネルだ。発電所の水路トンネルを模式化したものなのだ。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=137.86123247517&latitude=35.773144227975
長野県上伊那郡宮田村にある中御所発電所。天竜川支流北御所川から中御所川へ、中御所川から発電所へ水を引く水路トンネルがあり、それに黒川からのトンネルが“GORYU”して発電所に達している。その構成をネクタイピンに刻んであったのだった。厳密にはちょっと違うが……。
裏には「中電中御所発電所竣工記念」「1980.OCT.住友矢作共同企業係」とある。またクリップのところに「PAT.1035405」という刻印も。このPAT.はいろいろなネクタイピンで見られるものらしく、大勢がネット上を探している。そうして適当で無責任な答えしか与えられてない。
特許・実用新案公報DBで検索すると特許1035405号は松下電器の磁気ヘッド切換装置に関するものなので除外。実用新案で調べれば昭和43年に出された実用新案出願広告が見つかった(実公昭43-031055)。東京の篠塚製作所が出願したもので、クリップのバネの役割をしている板がS字型に曲がっていて、その曲がった部分とクリップの先端とでネクタイを挟むようにした工夫である。従来のクリップは先端だけで挟むためネクタイピンが傾いてしまいがちだった。そうならない工夫を施した板バネの出願公告だ。これが成立して実用新案1035405号になったのだろう。
資料を適当に読だり数人に当たってみたりしただけで「記述がない」「資料がない」「古老も知らない」なんて宣ってしまうのはよくないと思い、自重している。 選択肢はただでさえ沢山あるのだから、手近なところから中りをつけ、刈り込んで整理するためには(自分の理解や記憶を整理するのに)必要かも知れないが、そいつを公けにするとなると話は別。自分が見逃しているだけで、答えがその探索枝に実っている可能性は大いにある。その果実を探している他の人が収穫する機会を永久に奪ってしまいかねない。埋もれずに済んだ史実を知らないうちに抹殺しているかも知れない。実際町村史の交通の項だけ読んで「無え」と憶断してしまい、あとで近代通史とか郷土の偉人とかの項で重要事項を発見したりしたことは枚挙に暇がないからな。
電話で問い合わせをするときは特にそのことを思って気を使う。一度「ない」と言われたら、自ら再度突撃する気になるわけがない。「この方面はダメだった」と愚痴りたくもなる。けれども自分のトークがダメで、不審者扱いされたから「ダメといっとこう」だったかも知れぬし、その確率のほうがはるかに高く、そう答えた担当者史氏の机の後ろのキャビネットに捜して止まない重要資料が収まっているかもしれないのだ。脳裏に浮かんだあの人この人が断罪証言人であるかも知れぬ。自分以外の、もっと熱意を持って事に当たれる人ならば上手くこなしてくれるかも知れぬ。
などと考えてみる一方で「それっていいわけだよねぇ」とも思う。いまこの世の中で自分が最も熱意を持っているからこそこのタイミングで本を読んだり問い合わせしようと思ったりしたのだろう。手を付けた・手をつけかけた責任というものがあるだろう。一度手を付けたならとことんやるのが筋だろう。やって成果を出すのが筋だろう。上手く行かなかったことや見つけられなかったことは言い訳でしかない。
そういう二重思考がnagajisには多い。めんどくせえなあと思う。腰が重く尻が上がらない冬の時期には特に顕著。
であるならば、そういう「よだきい」を打破する策を考えるべき。試してみるべき。今までやったことのない新たな策で生き馬の目を抜くのはどうか。
ということで、デイサービスセンターに凸してみようと思っていることを予め書いてみる。地元のデイサービスセンターなら詳しい人がいるんじゃないか。かつて働いていた人や、そういう人を知っている人に行き当たるかも知れない。現地でモンテカルロ式いきあたりばったりをするよりも効率はいいだろう。怪しまれること間違いなしだが、なあに、これ以上無くすもの・ことは残っちゃいねえ。
テレビの人に返事をしといたのだが連絡がこない。たぶん迷惑メールに分類されてるな。
以前から写真のタイトルの付け方が鼻持ちならないと感じていたのだけれども、そう思う理由というか、イヤなものに思えてしまう理由の拠って来るところがどこかのかを発見した。子供の頃だ。古書棚に突っ込んであった1970年台80年台のフォトコン目録を暇にあかせて引っ張りだしてみたら、どれもシンプルなタイトルなのな。小細工はいらない、写真で語るのだ、という意気込みが感じられて好ましく思った。そういう古い人間だから忌避感を覚えるのだな。
当時の写真はたいてい白黒写真だというのもタイトルの簡素さと関係しているのだろう。カラーではなく白黒の濃淡だけで表現しようというのだから勢いタイトルもキッパリしたものになるんじゃないか。逆にいえば最近はカラーだからタイトルも満艦飾にしないと対抗できない(と思われてる)と。
原口亀太郎・仲太郎の名前が並列で出てくるだけ……。しかし発見がないわけでもない。
近畿の産業(十四)
泉州の煉瓦業
▲煉瓦事業の沿革 我国に於ける煉瓦業の濫觴は明治二年工部省鉄道寮が堺にダルマ窯を以て製造したるに始まり爾来原口亀太郎、原口仲太郎、丹治利右衛門、児玉、花岡、佐藤、成金社(せいきんしゃ)、稲葉組等或は興り或は[亻+ト](たお)れ十五年大阪窯業会社の設立せらるるに及び斯業の基礎漸く確立し二十一年ホフマン式輪環窯を採用し旭煉瓦岸和田煉瓦貝塚煉瓦津守煉瓦製造所等の創立を見、三十年には年産一億五千萬個以上に達し遂に生産過剰の為に頓挫を来せり
▲需要増加と経営 泉州の土質は煉瓦製造に適せるを以て今日の発達を促したるも亦一面之がため其濫觴を惹起し各自の競争激甚となれり煉瓦相場の高低甚だしきは需給関係よりも寧ろ是等事情に左右せらるること多し而して近時需要益々多きを加え従って其製法に一大変化を来し簡単なる手工業を以てしては利益薄きより漸く大工業的の面目を具備するに至り相場は三十五六年には千個八九円を唱えしもの丗八年には十三円となり三十九年には十円五十銭に暴落し四十年二月より四月に至りて十六円に突飛し四十二年二月には九円台に大下落を演じ昨今十一円台に保合い居れりコハ当業者が市場の大勢に通暁せず思惑心を以て売買を試みる結果にして斯業の発展上憂慮すべきに属す
▲大高庄右衛門氏の効績 氏は千葉県の人現に大阪窯業会社の技師長たり[先]に独逸其他欧米の煉瓦事業を研究しホフマン式焼窯に更に一層好良なる窯炉を発明して特許を得カッセル窯に類せる化粧煉瓦又は耐火煉瓦用窯を製作し其他原形[製作機?]乾燥機等斯業のために改良苦心する所頗る多く堺付近を中心として今日の発達を見たるは氏の力与って大なりというべし
▲組合薄弱 組合の必要殊に痛切なるに拘らず却って之が設立を妨害し製造業者間に何等の連絡なく只僅に大阪窯業岸和田煉瓦堺煉瓦貝塚煉瓦日本煉瓦津守煉瓦の一組合を組織せるのみ而も勢力薄弱にして生産上に資する所なきは頗る遺憾とせざるべからず
▲内外製造の比較 煉瓦事業は其の製法簡易にして技術上の熟練を要する程度少なく監督者の如き亦多くの人員を必要とせざるに本邦に於ては十人に対して一人の監督者あり又直接事業に従事せざる雇用者少なからず(傍点)日本煉瓦の如き事務員と職工と其数相半せりという(傍点)生産費の嵩む亦止むを得ざるなり独逸地方の如き職工数百人を使用せる工場にして事務員兼職工監督者僅に二名を以てすと云う原料は本邦より二倍高く職工賃金は三倍以上を支払い然も製品の本邦品より低廉なるは畢竟此辺に原由するものならんか当業者の鑑むべき所たらん
毎日の古い記事は見出し検索が腐っている。画像でいちいち探すしかない。上記記事を獲得したあとこれといったアテもなくぺろぺろ開いていたら成金商社の広告を見つけた。これが最大の発見。そして有限責任成金商社の社長が若井源左衛門という。明治二〇年九月の記事。
煉瓦製造 本区間には三河底隧道を始め大小橋梁等、煉瓦を使用する箇所が頗る多かった。鉄道当局は是等所要煉瓦を製造するため、明治三年堺、大浜通り元凾館物産集会所敷地を堺県より譲り受け、ここに煉瓦製造所を設け、大属原川魁助、中属長谷川彦兵衛をして其衝に当らしめた。
当時は煉瓦製造に明かなる者がなかったので当局は京都府、兵庫県等へ照会して陶器又は瓦造の職人等を招集し、雇外人より製法の教授を受けしめたのである。この時、堺の瓦製造人丹治長蔵なるものが職工長となり、窯は陶器屋慣用の登り窯を三座築造し、一座を八室乃至十室に区分し、これに白地煉瓦一万二、三〇〇〇枚を一緒に容れて焼いた。煉瓦に小煉と白地との別あり、小煉は足踏であり、白地は手押式に依るもので木枠の型を用い、天日で乾燥して焼くのである。原料たる粘土は製造所を距る十町乃至二十町の万代八幡付近より採取したが、その粘土の質佳良なりしを以て形正しく堅緻にして石を凌ぐほどの良質煉瓦を製出することが出来た。是等の煉瓦は小帆船に積載して、大阪、尼ケ崎、西ノ宮、神戸等に送り、それから先は車力に積んで、それぞれ現場に搬入配給したのである。
この煉瓦製造所は明治六年夏、鹿児島県人永井庄右衛門、原口亀太郎両人が地所建物機械一切を払受け爾後の製造に当り、製品は必要に応じ鉄道寮で買上げたのである。(復刻版pp.17-18)
『鉄道と煉瓦』はほぼ全面的にここから引用している。異なるのは姫路物産会所が足されている点。
煉瓦は安政四年(一八五七)長崎に幕府が製鉄所を設置した際に作らせたのが初めとされているが、堺では明治政府が大阪造幣局を建設するため明治二年(一八六九)東湊の瓦屋藤吉に命じたのがその起こりである。翌明治三年にできた工部省の煉瓦製造所は明治六年民間に払い下げられ、瓦師の丹治利右衛門は独自に工場をつくり堺のレンガ工業が始まった。
明治二〇年(一八八七)頃の資料によれば、煉瓦石三七、三七〇・〇〇〇円、土桶摺鉢五七八・〇〇〇円の生産額で五四八、八八九・一一七円の清酒や五九、五六八・〇〇〇円の醤油等の醸造業に比べれば、少ないがかなりの位置にあったのである。堺がこのようにレンガ製造の地となったのは、良質の粘土が手に入ったからだとされている。
丹治工場が官営工場と別置であったことが明示されている。そもそも明治10〜20年代初頭の統計書には出てこないのだものね。しかしどこから藤吉が現れたのか謎。「藤」がつくのは焼塩壺の伝統からか。
焼塩壺(湊焼)は天文年間に湊村に移住した藤太夫なるものが作り始めた。その後藤左衛門の名。のち難波に進出し難波屋となる。瓦は文化7年(1810)に大坂の瓦仲間に加入して生産と販路確保、文政4年「瓦株名前帳」ではそれまで屋号を瓦に押していたのにかえて「堺改」の極め印を使用して堺瓦のブランドを守ろうとした。とある(同ページ)。大阪窯業+改に通じるものがありはしないか。
『堺』の情報はおそらく戦前堺市史(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/716)のリライトと思われるが、ここには瓦屋藤吉の名前は出てこない。いくつかの出典が書かれている(最初期のいろいろは古老の聞き書きに加え丹治煉瓦が提出したと思われる由緒書き?から)がそれらは『堺市史資料類纂』に未収録だった気がする。見逃したんか。
が思いのほか早く売れたのでほくそえんでいる。ただしウチの実入りはほとんどない。ほぼ趣味の出品である。そのうえ本家がバラしたネタの本だと勘違いされて購入されている可能性も捨て切れないのだった。共感して真似しました、出品者がおすすめする謎の本ですってことはちゃんと明記しておいたんだけど。
疑ってばかりなのもどうかと思うので、ここは調子に乗ることにし「単行本X」を作っておいた。第一弾は私が被害者になる。面白くなかったらここに容赦なく突っ込んでいただければと思う。
この調子で「製本エラー本」も見つけてもらえんものかなあ。
上下巻セットは値崩れするだろーというのが確実に崩れていっている。市場に沢山出回っていれば安くなる、という経済原理を具現で体験中。今後どうするかが問題だな、さっさと再構築して価格の番人を気取ってみるか、無闇矢鱈に出し続けるか。
バルカン砲を撃つと当たらなかった弾が地球を一周して自分に飛んでくるので困る。
(日本語訳:同報メールシステムを使うとobsoleteになってしまっているメールアドレスが多いことを思い知らされるためあまり使いたくないのである)
たった3日走っただけなのに脚が重いぞ。一日歩き回った日の翌日よりも酷いぞ。鈍ってるぞ鈍ってるぞ。人間活動の根幹に限りなく近いところにある、原初的な行動である、「走る」という行為がかくも大変になっているというのは、nagajisよ、管理不行き届きなのではないか。まあ管理しなくて困るのは自分自身だけなんだけどさ。
走った後、べちょべちょになったパンツを履き替えようとして、素っ裸のまま、
うぉぉー! 俺はいま猛烈にパンツを欲している! パンツー! パンツー!
と叫んだりなどした。病んでいるのかも知れない。
而して目的のパンツはヴェランダの物干しハンガーにかかったままであった。素っ裸のままヴェランダに出るのはいつものことだ。向かいにマンションが建ってから気兼ねなくそうできるようになった。念のため断っておくが向かいには壁しか無い。手洗いの換気窓らしい小さい窓はあるがあれが開いていた試しはない。通路から身を乗り出して確認することはできるようだがそこまでしようという人は幸いなことにいないようである。
フルチン、という言葉がある。上述ヴェランダでの私のような装いの状態をいう。幼い頃はよく使いよく口にした言葉だが最近はとんとご無沙汰している。フルチンフルチンイェィイェィイェィ、などと歌いながらその状態で走り回っていた頃が懐かしくも遥かに遠い。
昔から「何故フルチンというのだろう」と思っていた。フルにちんちんを露出するからFull−Tin(tin) なのであろうかと思ったりもしたし、その状態で走り回るとちんちんがぶらんぶらんと振られるので「振るちん」なのかも知れないと思ったことも有る。いずれにしてもこれだという答えを得たことはないしましてや与えられたこともなかった。真面目に考察したことなどさらさらない。その必要がなかったからである。
四十路を過ぎたいま改めてつらつら考えて見るに完全露出の状態をFullとは言わないだろうと思う。フル稼働、フル装備という言葉はあるがその「フル」が「露出」の意まで含めた言葉でないことは言を俟たない。せいぜい「完全」とか「徹底的」くらいまでだ。だとすると第一の説は完全ちんちんとなってしまい的確な示状語ではなくなってしまう。人はちんちんそれのみの存在ではないし剰え不完全なモノをぶら下げているという自負のある私である。どうもそぐわない。第二の説もこの寒さの中に於ては的確でなくなってしまう。運動の直後の上に寒さで縮み上がってしまったそれが振れることは決してないのである。
本当の答えはやはり第三第四の説に依らなければならぬのだろうが疲れている今の私の頭では考えることができぬ。かといって広く教えを乞う気にもなれずこっそり教えて頂くのはさらに謝絶したい気分になっている。なんでこんなことを書いているのだろうオ・レと我に帰ってしまったからだ。要するにちんちんちんちん書き過ぎるのは頂けない。いくら誰も読まない日記だからといっても憚るべきところは憚るべきであり英国の人気コミックの日本語版のごとくTinTinをタンタンと訳し変えるくらいの配慮を為すことがこの世界では求められているのである。何とも生きづらい世界ではあるがそうした自省が秩序を産み社会を築き上げたのであると思えば無碍に反駁を唱えるわけにもいかないだろう。世に安穏を求めるのであるならば無闇にちんちんちんちん書き殴ってはならぬのである。そんな気づきが今日の収穫。イェィイェィイェィ。
[フルチン]というタグを作りそうになった自分を責めたい。これ以上余計なタグを増やすな。
kindai.ndl.go.jpがkindai.ndl.go.jpじゃなくなってから久しい刻が経っているにも関わらず未だに「近デジ」と略してしまう。「国立国会図書館デジタルコレクション」という非常に語呂の悪い正式名称は中々覚えられないし短く略しようも思いつかいない。「デジコレ」とかしたら妙にハイソな響きになって中身の泥臭さに似つかわしくない気がするし「国デジ」とするのも何だかなあだ。圧縮を解いて元の形にする時に違和感がある(国立の国なのかそれとも国会の国なのか、あるいは国際の国という解もあり得ないわけではないし等と思ってしまう)。不可逆圧縮なのは不便極まりないし誤解の生じる元である。
最もよいのはndlと略することだがこれは口頭に発する時に困難を覚える。今まで使ってきた用法の文脈で「えぬでぃーえる」と発話するんはまどろこっしくてたまらぬ。んだるー、とか意味不明な略し方はもってのほかだろうし。よく考えてみたらndlはNational Diet Libraryの略であってデジタルデータ群のことは含まれていない。だからdl.が頭についているのだ。ますます困ったことだ。
そういや豊中市域では未だ右ズレ〓を見つけていなかった。豊中市の煉瓦特異性に+1ポイントを加える一石。以前数えた時点で30種を越えていたから、今頃は50種類くらいになっているかも知れない。bdbに「豊中市」タグをつけて数えてみたい気がするが全部見直すのが面倒で着手できてない。
豊中市特に岡町周辺には何故煉瓦が多いのか。阪急が明治45年から分譲をはじめた岡町住宅地の存在が大きいはずだとは漠然と思っていたけれども、この分譲をやった岡町住宅経営(株)が分譲地以外にも煉瓦を売ったりしたんじゃねえかと突っ込んで考えてみる気になった。煉瓦を使った衛生的な街区の存在に憧れて隣接街区の家が個々に採用していった、というより、煉瓦小売機関として岡町住宅経営(株)が機能してたことのほうが大きいのではないか。同じような郊外住宅は多いけれども、だからといって煉瓦が多数・かつ多方面の煉瓦が見られるわけではない。石橋にも石橋土地会社があったそうだ。それはどの辺にあってどのように分譲しておったのだろう。このへんは諸会社役員録を見ればよいのか。
工場通覧M35からはじめる。ひながたを作っておいてそれをコピペしてったんだがそのひながたに余計なデータが混じっていたようで馬鹿でかいファイルになってしまった。途中でリソース不足となり各ページの余白を削除するのに時間を取られまこと歯がゆい時間を過ごす。このへん大変詰めが甘い。最初の手間を惜しむからあとで余計な苦労をするのだ。はじめに完全なものを作っておけば何の問題もござそうらわむずらん。
あと一歩で復元というところでトチ狂ったことをしてしまいバックアップをお釈迦にしてしまう。Windows8.1をクリーンに入れるので精一杯。最初からついてきたOfficeは復旧できずだったので落第かも知れぬ。それにしてもSSDはええなあ。いいなあ。
モルタルを剥がしてネオナイス(塩酸10%洗剤)で残りを溶かし去る作業をすると、濡れている間はきれいに見えるのだが、乾いてくるにつれて白い粉がふいたようになる。最近始めたクエン酸洗浄でもやはり同様。湯につけるとすぐには溶けないがブラシで軽くこすると溶ける(取れる)。
モルタルのかけらが残っているところはその周囲に顕著に出てくる。その白い結晶を250倍のハンディ顕微鏡で眺めると残っているモルタルとほとんど同じような形で析出していることがわかる。違うのは色だけ。モルタルに含まれるカルシウム成分が溶けてカルシウムイオンになり、水と一緒に煉瓦に吸収され、それが乾燥とともに表に出てきて二酸化炭素に触れて炭酸カルシウムか何かになっているのだろうと思う。これは以前読んだ『煉瓦の風化物に就て』でいうところの数年後に析出するやつと同じものと思う。
煉瓦が水を吸う性質がある以上、またモルタルを酸で溶かそうとする以上、どうしてもカルシウムイオンが発生するし吸い込まれる。酸で洗浄する前に十分に水に浸して吸水させておくべきなのかも知れない。この手の風化物は確かに、川の底から回収したような煉瓦では経験しない。地上に転がっているモルタルの付着した煉瓦を清掃する時に出てくる。
これを落とすには薄い酸性の薬品(酢を薄めたやつとか)で洗うといいとどこかで読んだ気がする。レンガ建築が盛んだった頃にはこの風化物に悩まされる建物が多かったようだ。確かにあまり見目宜しくない。しかし乾いた状態に酸をぶっかければまたカルシウムイオンが溶け込んで元の木阿弥になってしまいそうである。
さっきやっと納得のいく理由がわかった。下駄は両手にはめるのだ。そして長手を左右から挟み、左手の下駄の上に立てるようにすくう。そのすくう動作を右手の下駄で補助しようとすると、下駄の横腹、あるいはその縁の角で長手を押す形になりやすい。あるいは角でえぐるような押し方になってしまうこともあったろう。それが正確なV字の溝でなく「レ」の字のような断面になっている理由。縁からの距離は下駄の板の厚さに近い。あるいは筋の位置で支えれば必要最小限の力で支えられるのではないか(感覚的に)。
左手の下駄に取ったときには長手を下にして立っている。そこから右手の下駄で平を受け、左の下駄で反対側の平に持ち直し、取り板に戻せば長手で立った状態になる。この下駄に印がきざまれていれば両側に打刻されることになる。持ち直す時にあたふたするときれいな刻印にはならない。持ち直せば二重三重の打刻になってしまう。
江別の『れんがと女』にある、解説仕切れていないあの手順がこれではないか。左の下駄の歯が削れやすいというようなことも書いてあったはず。それは左手の下駄を持ち上げた素地の下に滑り込ませるようにするためで、その動作の時に取り板と歯が擦るからだ。
ごく稀に長手に打刻されているものも、わざとそこへ打ったのではないのだろう。すくって取る時に勢い余ってそこへ乗ってしまうこともあり得る。下駄の中央に刻印が造り付けてあれば、して下駄が平と同じか一回り大きいくらいであれば、長手を挟む時に中央の刻印が長手につくことはないはず。長手に取る時に勢い余って粘土が真ん中へんに飛んでしまえば。しかしそうすると両方に同じ刻印が刻んであったことになるな、裏表で全く同じ刻印だとすれば、刻印は片方だけで、持ち直すか反対に回ってはさみ直したことになる。ああそれは、型枠に入っている状態の時に打てばいいのか。下駄のときに打つんではなくて。
考え続けるって大事だね。
_ ヨッキれん [うほ…イイ資料! 少し見せれッ!]
_ nagajis [悶え死ぬ日記なら貸してあげませ(ry]