nagajisの日不定記。
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皇太子殿下八回目の誕生日なり。漢文を以て中期の課程(教授部)は終了す。夏休みより帰校せしはわずか十日前の如く思わるる感せり。午後は三時間明日の内務検査準備のため教室・自習室・寝室・外庭の掃除をなす。たのしきゆるりとした自習時間なりき。
代数の時間特に幼年学校出身者は予科に行きて中学出身者より数学を努力せざるべからざる事を痛折に感じたり。要するに真面目になすべし。修身は教頭会議に行かれたるときの話なりき。「人の一善を見て百非を忘る」唯軍人たる者は現在の本分に邁進すべし。
今日は 皇太子殿下御誕生の佳日にして 殿下は今年御年十歳になり遊ばされたり。我等一同喜の極なり。剣術の試合は不振なりき。攻撃精神雨の為暗く気分も優れざる日なりき。自習時間身に入らず。頗る良好なり。
あのあと清荒神の先に行って、時間が余ったのでまた山本に戻ったんですが・・・2番目に見に行った橋でおもろいもの(へんなもの?)を見つけてしまいました。探索した側の石垣です。
わざわざ見に行くほどのものではありませんが・・・そばまで行かれたら見てみてください。多分古いです。
脚立担いで山本〜清荒神の先まで往復。結果の公開はちょっと先になるかも。しかし、ひつこく調べると何かしら出てくるものだ...。
FIOTかと思っていたら、F10Tなのね。詳しい方はこれを見て「?」と思われるのだろうか・・・すくなくともいま調べて知った自分は?^2。詳しい方、解説お願いします・・・。
(CiNiiが間違ってたお陰で判ったというのがなんともな門外漢より)
もう一つの発見。「これのどこが?」と思われるかも知れないが旧橋に登場させるつもり。
溜まっている20号修正は明日中にまとめてupしまするosz
明日は受付とデートです。
よっぽど疲れてたんだなあと思う。創英ブリリアントボールド+NTC宋朝長体とかいう組み合わせ。RFナウは使いたくなかったのさ。
これも疲れてはいるが06年8月の広告のほうが怨嗟に近い絶望が篭っている。受けは良かったのだけど名。前回みたく解説することはないだろう。
地面の底の病気の顔
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。
地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。
陸地測量標条例
明治23年3月26日
第十条 標石を移転し若くは毀壊したる者は一月以上一年以下の重禁錮に処し又は五円以上五十円以下の罰金に処す
第十三条 過誤に由り測量標を毀壊し又は之に瓦礫其の他の雑物を擲ち獣類を繋ぎ縄索の類を懸け或は貼紙し或は戯書し其の他悪戯を為したる者は五銭以上壱円九拾五銭以下の科料に処す
施行令
第四条 標石敷地は方形にして標石を以て其の中心を領せしむる者にして其の大さ左の如し
但地形に依り本条に拠る可らざるときは格別とす
三角点標石敷地 一坪
水準点標石敷地 半坪
第六条 標石及海岸水準点「占見」標は永遠に保存すべきものにして其の種類左の如し
(明治28年8月15日改正)
抵二大日川一。坂路頗険。功郟(來?)九折坂。想当レ不レ過レ如レ此耳。顧謂レ泰曰。余以二逸民一探二逸事一。而探(-手偏)二此険一。亦必為二王尊所一レ咲耶。雖レ然以レ身報レ国。先子之志也。憂レ国史之缺一。先子之志也。此行継二其志一則王陽之徒之云乎。泰曰。然。然腹盖嗤二其強一。坂盡。路入二溪間一。松杉欝蒼。覚レ非二凡境一。亦陟数十丁到二嶺頭一。曰二鳩首一。風自二巽位一来。冷不可レ当。衆皆呼レ快。余下レ轎踞二道傍茶店一以望。西北則金剛紀見諸峯可二指数一。東南則峯巒重畳。高者或挿レ雲。而不レ可レ知下孰為二釈迦一孰為金峰上。下レ嶺又陟抵二天辻一。文久癸亥之秋。藤本津之助松本謙三郎諸士奉二中山公一入二南山一也。以二此地一為二牙営一。烈威赫赫。今猶在二土人口碑一。衆皆賛奨。余則想二起其風采一。不レ堪二悽愴一也。又行数十丁。路折入二溪村一。険不可レ轎。乃歩。石磴谽谺。艱苦殊甚。磴盡則坂本駅也。宿二駅舎一。
三日。辰牌発。駅口有二独木橋一。過レ之危甚。従レ此石径彎環。続二山腹一。臨二深溪一。夾レ溪者皆碧嶂翠峰。恠巌踞焉。危石聳焉。不レ(皇+辶)応接。二里而辻堂。一里而宇井。宇井之西有二板橋一。曰二小原一。橋下之水則自二篠原一来入レ溪。溪左右大石作レ門。水乃(氵+伏)(氵+回)。濃緑如レ油。右崖之石如二臥牛一。故呼二牛鼻潭一。潭南数十丁。路左有二木標一。表二十津川郷界一也。郷口之村為二長殿一。一里而宇宮原。在二水西一。踰レ橋者再。一里而上野地。又一里而高津。憩二道傍茶店一。店後崖上有レ祠。曰二國王神社一。傳云。奉二祀 南帝一。店前平坦処即長慶帝皇居之址也。此地違レ溪稍遠。自二坂本一以来。不レ見二稲田一。山民皆鋤二崖腹一為レ圃。至二上野地一稍々見レ田。此村則多二平田一。行十余丁。又入二山間一。依レ崖迂回曲折。其尾達二溪上一。有レ橋危甚。過レ之。有レ人揖二于道左一。問レ之則川津事務所幹事更谷喜延也。余レ導入レ村。々口又有レ橋。架二寒野溪一。橋南有レ墳。為二七后墳一。伝云。護良親王妃過レ橋跌以溺。侍女六人殉レ之。土人今呼為七后神一。此夜宿二川津一。喜延按レ図指示。一郷之地如レ在二掌中一。盖東西凡七里。南北十五里。為レ村五十有五。皆負レ山臨レ溪。田圃居二千分之一一。余問。曾聞路極険。橋必独木。今日所二経過一。自二長殿一以南却似二坦易一。橋亦多レ板何。曰。数年郡宰及西村諸氏胥謀開二闢新道一。所レ費殆二万円。其功実不二易々一。如二旧道一不レ可レ歩。嗚呼溪山千古風色如レ旧。而径路改良。操觚之士何所レ憚而不二来遊一耶料。知遊客年多二一年一。山霊不レ能レ秘二其秘一也。余幸為二嚆矢一。仮二風色一以壮二文思一。亦事変之賜也。
(風屋滝-)超二小嶺一。過二野尻一。到二山崎一。於レ是与レ渓別。過二中原嶺一到二小森一。憩二村口茶店一。当レ軒之峯峻峭。問二其名一。完曰。行者岳。是為二一郷之中央一。又行数丁。崕上有二招魂社一祭下郷人死二 王事一者一也。此郷以二義勇一称自レ古直隷二 皇室一。是以維新之際。皆奮致レ身。亦昔人流風所レ存。可レ欽哉。時杉井貞雄來迎。実文武館幹事也。取二間道一先去。余則二折取二新道一。赴二熊野一之道也。坂道曲折而下。下窮則為二那知合。自レ是沿二小渓一而東。至二山手一。
至二風屋一。路又岐。右則走二津越野一也。余已無レ事二于川津一。故取レ捷右去。乃与二高久一別。過レ橋而乗レ轎。未レ至二嶺頭一両大至。衝レ両陟。過レ頂与二来路一会。雲杉風松瀑巒叫湍。加レ之洄風浮動。疑レ非二來路一耳。
つくった。ジスオは超適当である。なんでAのケース無いねん。
昨日の収穫その2。猫は戴き物。今まで見たことのある猫のブローチの中でいちばんかわいいと思う。
猫が狙っている魚は串本海中公園が製造したモンガラカワハギ。カラフルな色に惹かれて購った。150えん。これをエプロンにつけて見分けがつくようにしようという魂胆である。
うん、うまい。簡単でよろしい。ヨーグルト大さじ2、しょうゆ大さじ1、トマトピューレのかわりにスイートチリソースを大さじ3、ナツメグ胡椒七味を適当。袋に入れて合わせたところへ鶏胸肉を放り込んで漬ける。15分ほど寝かせて焦げないように焼く。フライパンで焼くときはペーパーでぬぐう必要があるがオーブンならそのまま焼いていいようだ。ただし油が滴って煙たくなる。アルミホイル敷いたほうがいいな。と思ったのだがホイルが手元になかった。
なんでことしは日付と曜日が合わないミスばかりするのか。26−28ではなくて27(土)ー29(月)の3日間だ。
右足の膝痛が本格的になってきたのでジョギングはほどほどにして古墳ダッシュだけにした。この傷み方は関節の傷みというよりも筋の付け根の炎症くさい。常に痛いわけではなく特定の動作で発動する鈍い傷みである。ぱんつとかちんちんとかふるちんとかはしゃいでいるからだ。
しかしながら成果は出ているなのである。歩いている時の右足の蹴りがスムーズになったように思う。かかとから親指付け根にかけて移していく体重がスッと乗るようになった。親指付け根でしっかり蹴れている。だから市立図書館から梅田駅まで歩いて帰る気になったのだ。
希望的観測に基づいた資料探索が正鵠を射抜いてしまった。明治41年正式二万図に窯記号がある。現在の字平野のまさにその場所だ。
現在この場所は梅美台への車道と緑が丘浄水場に挟まれた格好になっていて、広範囲に整地されている可能性がある(敷地の南半分が緑が丘浄水場になっている?)。せめて北方の池にかけての斜面が手付かずだったら望みもあるのだけれども、航空写真で見る限り、そこも段々犬走りが作られて様相が変わっているようだ。カケラに賭けていくしかないな。
この位置に煉瓦工場があったという事実がよからぬ妄想を誘い出す。真西に下っていけば般若町があるという絶妙な立地なんだ。上の地形図も実はミスリードを誘うような切取り方をした。よくないことだ。
4日坊主かと思ったりするが休んでも休まなくても坊主なのであるからしてノープロブレムなのである。
どんなことでも23日続けると習慣になると聞いたのだが本当だろうかという疑問が起こる前に何故そのような素数の日数なのかが気になって仕方ない。二十三夜講と関係があるのかどうかも気がかりで、而して二十三夜講が何であったかを思い出せずにいる。果てる底無きうろ覚えの人生である。
宮崎あおい結婚と聞いて至急帰国せねばと思った。しかしパロールで聞いただけなので別の宮崎あおいなのかも知れない。だとすると慌てて帰国するのは帰国損であるだろう。 「「
S7 まで。無闇に入力した各種データがカタチになっていくこの瞬間が、いちばん幸せな時期なのかも知れない。これをIllustlatorでアウトプットするのが苦行なのだ。
今回のスパンでもいくつかの継承関係を確認できたが、むしろできなかったところのほうが多くて気がかりである。静岡煉瓦とか。あと東京煉瓦の千葉工場買収とかは知っていないとわからない。突如宮城にワープするだけだもん。あと例によって創業年はメタメタ、大阪とか兵庫とかはかなり素直だったんだけどなあ、この辺は通覧より統計書と羊羹を頼りにするしかない。小工場は追えなくても仕方ない。
北海道は鈴木さん久保さん館脇さんがあっちこっちに分工場を興した直後に野幌煉瓦とかマル二北海煉瓦とかが出てくるので継承関係を正しく追えるか心配だ。sしかしこれを上手く追えたら結構面白いものになりそうな気がする。
するする話ができたらなあ、とおもう。いろいろ思い違いをしていることも多数。自分の取り柄がヌルヌルで取り落としてしまったようなもの。
会社のHDD入替えに触発されたのと、そろそろバックアップを取っておかなければまずい気がしてきたので、入替えてみる。価格もそれなりにこなれてきたし。
やっぱはええなあ。起動スプラッシュのインジケータが2周する前にユーザー選択画面に遷移しクリックしたら3秒でデスクトップが出てくる。出てきたあとに次の操作を待たされることもない。これであと何年か戦えるな。
次の危機は、たぶんChromeが使えなくなるとか、Googleへのログインが弾かれるとかなった時。Macはウォッちずが見れなくなってindex2.htmlが効かなくなった時に見限った。
鶴橋の路傍で。いかにも用途のなさそうな機械屑に「不用品」のレッテルが貼られて放置されていたというただそれだけのことで、画的には何でもないのだけれども、妙に奇妙なポテンシャルを感じてしまった。ダッシュボードとかストーブとか茶碗とかに「不用品」と貼られていたのであれば「ああ不用品なんだな」で済む案件。しかしここまで使い用がないだろうというような物体に、わざわざ折をつけてやらなくても不用品だとわかるというものだし、死人が足蹴にされているような哀れも感じる。さらに鶴橋という土地柄が、モノが見做された不用の度合い、不用レッテルの強力粘着力をいや増す。誰からも見放された徹頭徹尾不用の品が、ぼくは不用品ですという名札を下げさせられている。哀れというほかない。
しばし眺めて、不用と判断される以前の彼の姿を想像してみたが、これっぽっちもわからなかった。モーターファン+ツマミ抵抗orツマミスイッチという組み合わせはありがちでありそうだけれども、それ故にかえって何か一つに寄せていくことができない。
得体の知れない使えないもの、誰も必要としていないもの、という点においては、かの機械も私も同じ。そんなことを考え、共感というか同情というか、あるいは「同病相憐れむ」みたような視線をなげかけてみたりもした。しかし彼はきっと機能する機械の一部分として活躍した時期があったはずで、輝いた瞬間など一度たりともなかったnagajisに比べれば、はるかに偉い物体と言えそうである。nagajisこそ「不用品」の名札を下げて歩くべきである。
それにしても「不要品」「不用品」どっちが本来なのだろう。必要としない品と用いない品では微妙にニュアンスが違う気がする。
明治29年の大阪府の煉瓦製造量、あるいは生産額を知りたい。
という瑣末に過ぎるリファレンスを受けて下さり随分調べてくださったのだが答えは得られなかった。最初にこれこれこれを確認したと申したのだけれど、合力して探してくださった方が出してくれる資料ゞが既にあたっている文献ばかりで何とも申し訳那須の夜市。
明治の大阪府誌第二巻工業部には確かに生産量が載っているのだが、その値が一桁違うんじゃないかという疑惑を晴らしたかったのである。データがあるということは当時の大阪府がデータを収集していたということで、そのデータが府止まりでなく内務省とか農商務省とかにも行ってそうなのだけれども、当時のそれに相当する『農商務統計表』第13次には煉瓦の項目がないのだった。陶器はあるけれど。
結局のところ、収穫は『大日本窯業協会雑誌』がwebで見られることを思い出させてくれたこと(M29かM30あたりの雑報に乗ってないだろ―か)、宮谷慶一「明治・大正期における煉瓦産業の分析 -統計資料からみた日本近代における煉瓦生産について その1-」を教わったことは収穫であった。後者の論文は「その2」にあたる「煉瓦生産額上位府県と労働時間の分析並びに統計資料の調査対象に関する補足」で大阪府単体の分析も行なわれているけれども明治38年以降しかないのだった。ざんねんだ。
そうして例のごとく古新聞を発掘する。今回は明治40年に手をつけることにした。この時期の煉瓦構造物にやたら混用が見られるのはなんでやねんということでこの年の産業状況なり世情なりを知りたかったのである。1月分しか見れなかったが久しぶりにマジ読みしたせいか色々と発見があった。毎索を明け渡して聞蔵に移ったりしたが、その聞蔵で拾い漏らしていた重要情報も多かったのである。聞蔵は「煉瓦」と「煉化」と「レンガ」の結果が正規化されていない。「煉化」「レンガ」で検索して初見の記事にヒットすること多々。しかしなぜか明治23年頃から30年代後半までヒットが全くない。紙面データベースには大阪朝日新聞創刊号~大正15年まで収録とあるんやけどなぁ。おかしいなあ。キーワード「煉瓦」でも引っかからないのは何かおかしい気がする。
そんな朝日の重要情報。原口亀太郎と原口仲太郎の関係が明らかにできた。
●勤勉の余栄 府下堺区大浜通住居鹿児島県平民原口亀太郎と云えるは同地にて数年間煉化石の製造に刻苦し鉄道を始め大建築に用る煉化石は都て同人の製造品ならざるなき程の精良に達せしが惜いかな同人は客月九日俄然急病に罹りて死去したり依て鉄道局に於ては生前の勤勉を追賞せられ別紙の通祭祀料を下賜せられたりと
金百円 原口仲太郎
其方父亀太郎儀年来当局用煉化石製造方に付勉励の廉も不尠候処死去候段憫然の至り依て別紙目録の通祭祀料として下賜候條吊祭に可供且其方は引続勉励し家業不惰様可到もの也
明治十八年十一月四日 鉄道局印
「鉄道一瞥」では堺の鉄道寮工場を原口亀太郎に払い下げたとしていた。「大阪府誌@明治34」ではそれが原口仲太郎となっている。して後年の統計書でも原口仲太郎が所有者となってる。なので原口亀太郎は仲太郎の父なんじゃないか、そうでなくても縁故者じゃ、と思っていたけれど、それが証明された格好だ。まこと瑣末な些細事項ではあるが、こういう偶然的な情報でもない限り証明が難しい事項である。見つけるのが困難なパズルのピースがひとつ手に入ったわけで、これからは大手を振って原口亀太郎=仲太郎の父ということができるのは大変心地いいことである。
(とはいうものの、朝日の記事は信憑性に疑問がないわけじゃない。逢坂山隧道に外国産煉瓦を使うとか、その頃までは尽く外国産使ってるとか書いて憚らなかったりするので。)
いかん、ずいぶん寝ぼけてた。これは共栄社ではないか馬鹿者。二本線を互い違いに組み合わせて三本線風にした記号は、どこかで見つかっていそうなんだが。
だったらこっちのほうが役に立つ。岸和田煉瓦の前身、第一煉瓦の広告。以前Yさんから教わっていたとおり、件の×印は第一煉瓦時代から採用されていた。
勝部も広告を発見する。そうして「○」印が掲げられておる。これは解釈を難しくしてくれる発見・・・「勝」「部」「煉」「化」「製」「造」「販」「売」「末」「広」ではないのか。しかし成山第一第二の辺りで○刻印が見つかっているのは確かで、勝部の操業時期はぎりぎり、そこに引っかかる。成山は明治23年7月着工、勝部はM23末まで存在。なおこの数日後の勝部の広告には何のマークも掲げられていない。
そのほかにも馬関の砲台建設が第二方面担当の一般企業請負入札で進められていること(条件が厳しくて日本土木しか入札し得なかったが入札額にイチャモンつけられて大幅に減額のうえ再入札で日本土木が落札。結局は指名入札みたいな感じになったわけだ。しかし当初は一般入札が建前で、いつかの時期に指名入札が認められるようになったはずなのである。yes, sir.)とか岡山の玉島煉瓦が×印掲げてたりとか堺煉化石の関係者名が井上勝彦以外にも判明したりとか井上勝彦が海防費寄付してたりとか偕行社と関係がある?とか。偕行社の件はちょっとあいまい。偕行社で行われた宝物天覧に井上が所有する陶磁器が並べられたというだけで偕行社メンバーとも限らない。肝心のM40の煉瓦商況も意外に存在した。1月頃じゃ何も出てこないと思ってたんだけどな。前年9月頃から経済界が急激に活性化し始め、1月に入ってからも未曾有の伸びを示していた。煉瓦供給も本年度生産見込みの相当割合がすでに購入者が決まっていて、各社ともその生産に追われている状況、あるいは新規注文は断ることになるやも知れぬ、みたいな話になっておるのだった。なるほどそういう状況だと市場価格はバカ上がりするだろうし、まとまった量を入手するのは難しかろう。山陰本線なんかは夏に大水害を被って作り直しが発生したりしている。その頃に急に&大量に購入できなかったからああなったんではないか、ちう話。
久しぶりの新聞発掘で手抜きができなかった。マジ読み4時間で1ヶ月しか進まなかった。いつ終わることやらだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/65/6_65_623/_pdf/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/65/6_65_635/_pdf/-char/ja
第一期は京都大学使用煉瓦=堺、奈良両煉瓦工場が納入。163万個。
時期的に天羽が近いぞ。このほかにも京大使用煉瓦の件、鹿背山の山城煉瓦の出願など。掘れば掘るほど出てくるばい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/63/6_63_546/_pdf/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/64/6_64_584/_pdf/-char/ja
鉄道建設に当て込んで小工場乱立するも日本煉瓦製造東京煉瓦金町煉瓦に注文が行き小工場は逼迫。
別報で大阪のも。大阪朝日の記事だから以前掲げたのは別だ。
淡路岩屋町の岩屋煉瓦、株式会社に改組。
馬関丸尾煉瓦、宮城製瓦株式会社。
東西各社の純益、配当率。昨年上半期が最も好況。泉陽煉瓦は損益。
府下不況の様。
宇和島煉瓦?
府下不況の様。M29の製造高あった!と思ったら堺市のだった・・・。それでも堺市だけで32,954,829だから、大阪府誌M34の9,785,400個は明らかにおかしい。
君津郡煉瓦製造株式会社。発起人多い。
府下商況。
長崎などから輸入。
こっからM29.1.。発起人他。日本煉瓦や大阪煉瓦、讃岐、西讃も。
大高庄右衛門関与。
関東の煉瓦供給不平均。金町煉瓦が被災、小工場の製品代価あがる。
発起。山梨煉瓦、平坂煉瓦設立記事も。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/56/5_56_265/_pdf/-char/ja
あ、あった! と思ったら・・・これって以前テキスト化した東京朝日の記事やんけ! ああああああああああ答えは既に手中にあったんだぁぁぁぁぁぁ!!! ばーかばーかー>nagajis
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/57/5_57_290/_pdf/-char/ja
大会社合わせて39,806,586個。大阪府誌M34は9,785,400個だから頭の3が抜けていたと見てよい。
八王子煉瓦、津守煉瓦(林氏おらんぞー)、飯東煉瓦、住吉煉瓦、豊州煉瓦。讃岐煉瓦には大日本窯業会会員の設計の輪窯+登窯。
他に台場が原煉瓦製造所(北海道上川郡)、中越煉瓦合資会社(西砺波郡立野村)、中央煉瓦、篠ノ井鉄道冠着隧道煉瓦工場by鹿島組、愛知煉瓦合資。
いちいちかけんくらいにおおい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/59/5_59_375/_pdf/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/60/5_60_407/_pdf/-char/ja
答えはすでに手のなかにあったのだ。それが答えだともわかっていたのだ。けれどもその認識が間違っていて、もう一次上の真実を示していたものだということに気付けていなかった。nagajisにはよくあることである。ほんとうにばかなんじゃないかと思う。
この状況は、皮肉を言われて、皮肉を言われたとはわかったけれども、その皮肉の意味まで理解できなかった、というのが近い。そうして後で気がついて歯噛みして悔しがっている。自分でも何言ってんだこいつと思うようだが実際にそういうところがnagajisにはある。神経回路がどこかおかしいのに違いない。
ともかく、南桑煉瓦はよく戦った。ちゃんと仕事をし果たしたのだ。たぶん。
つまりはこういうことだろう。
実際に手板を作って平裏筋に当てると絶妙なバランスで支えられる。ただ、平を下にして置かれた状態から写真の状態に持っていくのはちょっとむずかしい。何故ならば
・煉瓦表面がザラザラで滑るので起こすためにかなり強く挟まなければならない。半乾きの状態であればしとっとしててうまく捕まえられるのかも知れない。
・手板の縁の角と煉瓦の長手縁の角を合わせた状態から平裏筋の位置に スライドさせる時に長手角を擦りがち。
右手の手板はしっぺいでもよいかも知れないが、力を入れる点が左手(手板中央)と右手(しっぺいの把手)とになるので、右手の力加減が難しくなりそうである。そもそも関西の煉瓦はしっぺいでペシペシ叩いて成形しなかった節がある。それで整形していたら平の撫で跡とか長手の砂付着とかがあそこまで明瞭には残らないだろう。ある程度形を整えるのは両手の手板でもできそうな気がする。
コテかなにかを差し込んで起こすだけだと筋のある辺の反対の辺の稜が丸くなるはず。そこまで明瞭に丸いのは見ない。むしろ筋側の稜が鈍っているののほうが多い気がする。
あと、2kgの重さはなかなかずっしりくる。実際に陶土とか粘土とかで2kgの直方体を作って試してみるべきだ。
行きたいところが一度に3つも4つも出てきて、かつそれが紀伊水道の西と東に分かれていたり日本海と太平洋だったりするものだから困る。行ったからといって何かが見つかる保証もないし。けれどもまあ、行かないことには何も進展しないのだろうし、あるとわかっているものを見に行ったところで物見遊山にしかならんだろうから、結局は行くのが吉ということになるわけだが。何度も経験してわかってるはすなのに逡巡を止められないのは面倒くさがりの生来のせいと貧しさのせい。
_ やの [2番目というと天神川ですね。]
_ nagajis [そうでーす。九頭竜橋がかかっているあの川です]