nagajisの日不定記。
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さらに好き放題を加速させ、会場で珈琲豆を挽き始めた。こういうのを傍若無人とか赤肉団上の一真人と云うのだろう(いや云わない)。そのくせ隣にボトルコーヒーもあるという謎。いったいチミは何がしたいのか。
今日は朝から雨だったので来られる方も少なかろうと思っていたのだが、豈図らんや遠方からこの展示のためにわざわざ来て下さった方が何人もおられ、時間をかけてじっくり御覧下さった方も多かった。勝手に出した案内葉書に応じて来て下さった方もあって、何とも有難いこと身のすくむことであり、少しでもお役に立てたとしたら煉瓦もきっと喜ぶことと思う。
元から興味を持って来て下った方もあれば、もちろん通りすがり的に見てくださる方も多くて、本展示の趣旨から言えばそちらのほうが「したり」であった。岡町住宅地にお住まいながら煉瓦溝のことを存じておられなかった方。建築関係で煉瓦建物の解体をしたことがあるという方。大淀の小学校の出身の方。三石におられて煙突群を鮮烈に覚えているという方。そういう方々に「足元には実はこんなものがあるんスよ」とお伝えしたくてこの会場でやっている。蒐集品を自慢するためにやっているのでは決してないのである。
興味深いことに、昨日今日と連続で「煉瓦を卒論のテーマにしている」という学生さんが来られた。どちらも考古学の研究室とか。それも特に埋蔵物が云々ではなくて構造物に使われている煉瓦を対象としているそうである。自分はてっきり発掘で出てきたものしか対象にならないと思っていたのだけれども、それはあまりに古い見識であったようだ(だってそうだろ、考古学ジャーナルとかで煉瓦取り上げられているだから)。「産業」を冠して考えずともよい---似て非なるものと考える必要がない、「産業」考古学が免罪符にはならない)時代になっていくのかも知れん。自分みたいな背骨のない素人が何をか言わんや、と言われるような分野に煉瓦研究が早くなっていただきたいものだ。
2つの拓を撮り比べてみた。刻印の底の形は確かに一致するんだけれども---一画目の点を点ではなくウ冠の一画目のように書く所とか、二画目のウロコの形とか、あれとかそれとか---、それを拓本で表現することができない。例のごとくフチがめくれてしまっているため表面が正確な字形を表していない。すごくもどかしい。こうなったらあの手を使うしかない。
同じ印が押されてるということは、同じ人が作った可能性が高く、それが姫路と由良とに離れ離れになって百数十年が経過した今また一緒になっている、ちうのはちょっとドラマチックじゃ中廊下。これで草津線の六が加わればもっと面白かろうがさすがにそこまでは持ち合わせていない。
あと、タルイの三つ鱗が意外と難しかった。面積が広いので均等に墨を乗せるのが難しい。無心になり過ぎて部分的に濃くなってしまったりしやすい。陽刻のところにだけ乗せようとしたがこれもごくわずかな凸のためはみ出してしまいやすい。これを完璧に仕上げることができて初めて拓本家を名乗れるんじゃないか。なってどうするかは別として。
三一新書だったか何だったかの、上下分冊ではない古い方の。名前だけは聞きかじって知っていたけれども実際に何をしてたかは全然知らなかった。鉄道設計でもしてたんかな、くらい。そうじゃなくて随分、というかほぼ100%、政治的な情報収集機関であったのだった。中国における土地売買の慣習法だとか農作物の生産量とかロシアの政治機構とか、大陸のあのあたりのありとあらゆる情報を収集し整理し内地に送る働きをしていた機関。その情報が満州事変だとか日中戦争だとかに利用された。当然ちゃ当然、外国と戦争するってんなら相手のことを知っていなければならない。そういう情報が昔から整理されて在ったわけではないし内地にいて収集するのは不可能だったろうし。
情報の重要性。収集するだけでなくそれを分類整理して初めて役に立つものになる。と後藤新平が熱心に言い出して出来た機関が大元にあって、改組再編がいろいろあって、関東軍とくっついてんのか離れてるんかよくわからなくなったり松岡洋右がトップに就いてた時期があったり、とかくまあ蒙を啓かされること多数な内容。自分にとって未知の情報がどかどか突っ込まれて整理がつかぬ。しかしちゃんと把握しておくとあの時代の構成柱が補強されそうな気がして、ぼつぼつと読んでいる。相変わらず知らないことが多いなあと思いつつ読んでいる。
写真に写る白ハンドルのナイフはもしや・・・。