録"nagajisの日不定記。
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長崎地方で幕末から明治にかけて作られた最初期の煉瓦。厚40mm強という薄さと平面形の小ささから「蒟蒻煉瓦」と称されているけれども、別にこれ、当時からそう呼ばれていたわけではないらしい。NDLで「蒟蒻煉瓦」or「コンニャク煉瓦」を検索しても戦後の文献しかヒットしない。そももそ長崎の煉瓦がなぜこんな厚さなのかを考えた人もないようだ。
長崎での煉瓦製造は長崎造船所の建設を契機としたのは間違いなく、その長崎造船所はオランダの技術供与を受けていた。そのオランダの煉瓦が実は薄いものだったりする。"Dutch Brick" と呼ばれ Wikipediaにも項目があるほどの特徴的な煉瓦らしい。Wikipedia曰く、オランダは15世紀頃には技術が最も進んだ国と認められていたほど煉瓦建築が盛んだった国で、17世紀18世紀のイギリスがオランダから煉瓦を輸入していたほど。そのオランダの煉瓦が世界各地の植民地に普及しもした。上記Wikipediaページには1874という西暦が刻まれた煉瓦が掲げられている。寸法は明記されていないが明らかに薄い煉瓦だ。
つまるところ、長崎造船所建設のために現地で煉瓦製造をした際、オランダの流儀で製造したために蒟蒻煉瓦は薄くなったものらしい(建設に際してオランダ技師たちがいかに苦労したか、どこに煉瓦工場が設けられたかは『長崎談叢』という雑誌に論考がある。北岡伸夫「蒟蒻赤煉瓦石考」(1)、(承前)。この記事などは「蒟蒻煉瓦」という言葉を使い始めた最初期のものだ)。
技術の源泉がどこかによって煉瓦寸法が異なった例は他にも多い。横浜に建設された横須賀造船所でも煉瓦が製造され、その寸法はのちのどの規格にも一致しない変わったものだったが、造船所建設に寄与したフランス海軍の煉瓦規格を踏襲したものだったことが判明している( 菊地勝広「横須賀製鉄所へのブレスト海軍工廠煉瓦寸法規格の導入について-横須賀製鉄所におけるフランス系建設技術の導入に関する研究(その3)-」。要約が https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-20760435/20760435seika.pdf で見れる)。ベックマンやエンデが来日しドイツ建築ブームが起こった時にはドイツのノルマルフォーマットだった大型の煉瓦が作られ独逸形と呼ばれた(そして跡形もなく消えた)。つまるところ、西洋技術の移植のついでに煉瓦寸法も持ち込まれることが当時は当たり前だったということだ。東京形 7 x 3.6 x 2寸などもイギリス流儀の建築技術とともに持ち込まれたもので、もとは 9 x 4-1/4 x 2-1/4 in あたりのインチ寸法で設計されたものだったに違いない。M28「煉化石及モルタル試験報文」(『分析試験報文 第1号』)にも東京形の寸法はイギリス・スタッフォードシャーの煉瓦に近似するとい記述がある。一方で鉄道分野でもイギリスから技術を入れたけれども、煉瓦寸法に対する考え方は若干違っていたらしく、 9 x 4-1/2 x 2-1/4 in と長手=小口×2となる目地見込まないディメンションを基準としていた節がある。而して特に煉瓦厚は 2-1/4 in 厚を墨守した。一般建築に要求される煉瓦寸法の精度と土木構造物たる鉄道付帯構造物に求められる精度が違っていて、要するに土木向けには目地をあらかじめ見込まないでもいいようなバラツキのある煉瓦をもちいていたことを反映しているんじゃないかと想像する。なにはともあれ日本ではイギリス流儀の建築とイギリス流儀の鉄道(土木)がデファクトとなり、先行していたオランダ流やフランス流を駆逐してしまったために煉瓦は 7.5 x 3.6 寸四方という感覚が固定化することになったと。そうして欧米各国がモジュラー設計の寸法で作るようになっても日本では旧概念の寸法で作り続けられる。はじめに覚えたことはなかなか捨てられないものだ。
オランダ流の薄い煉瓦は、当初は〝パン瓦〟と呼ばれていたんじゃないかと根拠乏しく妄想している。大阪で煉瓦が製造され始めた頃、煉瓦を〝麺麭瓦〟と呼んでいて、その大きさが 長七寸、巾三寸二分、厚さ壱寸六分(1.6寸=48.48mm)程度の小型ものだったと小泉王勁が書いている。大阪窯業もその前身である硫酸瓶製造会社時代に自社窯で使うパン瓦を製造していた。その経験が煉瓦製造専業に転じるきっかけになったとされている(『大阪窯業五十年史』)。
わが国最初期のパンはいまの食パンのような四角いふわふわしたものではなくビスケットに近いものだったらしい。韮山反射炉を建設した江川太郎左衛門担庵が作ったのが最初というし、確か宇都宮三郎もパン食をしていた話があったはず(両人とも煉瓦製造に関わりがあるのが面白い)。陸軍でもパンが採用されたがその改良は日清戦争後という記述もあるので少し違うかも知れぬ(三立製菓サイト)。もっともパンの漢字表記 麺包 は中国からの輸入で(発音メンパオ)、中国経由でパンの概念が二本へ届いていた可能性もある。ともかく最初期の乾パン的パンと煉瓦の大きさや色感が似ていて、それで煉瓦を〝パン瓦〟と呼ぶようになったらしい。そう考えると蒟蒻煉瓦も当時は〝パン瓦〟呼ばわりされていたのではあるまいか。
大阪で〝パン瓦〟の呼称が使われ、小型の煉瓦が焼かれていた時期があったのも、長崎方面からの技術伝搬があったのでは。砲兵工廠を設立するときには長崎造船所で使用されていた器材と技術者が大阪へ移されている。それとともに〝パン瓦〟が渡ってきたのではあるまいか。造幣寮の建設では鴫野の窯でウォートルス指導のもと煉瓦が焼かれたが、その事業と技術は一代雑種的で、後世に伝わることはなかった。伝わっていれば東京形がデファクトになっていたと思われる。続いて起こった砲兵工廠の建設(堺の官設工場で製造)、および鉄道建設に伴う煉瓦製造(官設工場やその払下げを受けた原口工場)など、堺で繰り広げられた最初期の製造が煉瓦製造@大阪の基礎となっているのは確かである。