nagajisの日不定記。
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我が家はかつて、猫屋敷だった。
当時、3人兄弟の一人ひとりに3匹あてがわれてもまだ余る位の猫がいた。自分も好きだったし、何より父親が好きだったようだ。飼っているというより、うちを住処にしているような状態で、気ままに出ていっては、ふらっと帰ってくる。生け花の菊をかじったり、他所の畑の胡瓜をかじったり(!)する悪さもした。1匹2匹、増えたり減ったりしてもわからないほどに自由奔放に暮らしていた。
それがある時から、猫の毛がアレルギーに良くないからという理由で、家に寄せつけなくなった。小学校の頃だと思う。
時は過ぎて、大学時代。久しぶりに帰省すると猫がいた。兄が拾ってきたらしい。曰く「あんまりむげねえ顔してこっちを見よるけん…」。それ以来また、猫を飼うようになったようだ。帰省のたびに猫が増えたような気がする。
中でも「ポテ」と名付けられた猫のことが忘れられない。ポテは父親の知合いの先生宅に野良猫が産み落としていったものだと聞いた。衰弱していたのを父親が貰い受けて育ててやったらしく、ある時などは事故に遭って骨折したのを、動物病院で治療してもらい、また自身で看病したのだとか。体躯のいい、凛々しい顔をした雉猫だった。猫の世界ではきっと男前な部類に入るだろう。尻尾がわずかに鈎シッポになっているのが残念だったが───ポテもそれを知っていたのか、尻尾をいじると非常に嫌がった───。
3匹ほどいた他の猫たちに比べて若かったせいもあるのか、気性の激しい猫だった。大きな体で仲間に挑みかかっては、さもうざったいという感じに「フーッ!!!」と威嚇されて、あまり相手にしてはもらえなかった。いつも活発で、そうかと思うとヒタと立ち止まり、まん丸の目を見開いて遠くを見ていた。そんな猫だった。
旅先で父親の病気を聞き、切り上げて帰郷した時は、いつもと変わらぬ父親だった。それが1カ月経ち2カ月経ちするうちに、みるみる衰弱していった。喉頭癌だった。病室に顔を出し、付き添うくらいで、看病とも言えない看病の日々。
ふいと、ポテの姿を見なくなった。窓を開けておけば夜になると決って帰って来ていたのに、帰らない日が2日、3日と続いた。そうこうしているうち、父は鬼門に入ってしまった。
出棺の朝、読経を済ませ、棺が運ばれようとする時になって帰ってきた。上がり口で靴を履こうとしている私の隣で、他の猫たちと一緒にちょこんと座って、棺を見ていた。まるでこの瞬間を見計らったかのように。
「おい、ポテ、お前の父さん、出棺やぞ」。呟かずにはいられなかった。
そうしてまた、ポテは姿を消した。一週間、二週間が過ぎ、忘れそうになった頃にまた、帰ってきた。しきりに足の裏を嘗めていた。捕まえて見てみると、ひどく怪我をしていた。
自分の田舎では、猫は死ぬ時に「猫岳」へ行くと言っていた。よく言われる「人のいない所でひっそりと息絶える」という俗伝と基を一にするものだと思う。ここから30kmほど離れた所、阿蘇山の隣に「根子岳」という荒山がある。そこからの連想だろう。だから、足の怪我を見て、猫岳へ父を連れて行っていたんだろうか、と思った。長く辛い旅路だったろうと思って、勝手に泣いた。
それ以来、二度とポテを見ることはなくなった。
あれから数年が過ぎた。自分は未だ、猫ほどの恩返しもできないままでいる。
今日(17日)もまたwebのメンテで一日潰れたような格好だ。公開前のチェック項目を作ったり自身のためのマニュアルを作ったり自動化を進めたりダウンロードページのとある重大なバグを潰したり。しかもそれを直したらさらにエンバグしてて、I氏の指摘で発覚したり。index.phpの修正も自動化しなきゃスピード対処できんな・・・。
例によって固有名詞をハデに間違えているpdfも直さなきゃいかん。詰めが甘いのよnagajisは。まだ出てきそうな気もするので、修正は明日以降に。こういう所の質は変わっていないのがさらに辛い。
今回は少しペースを落としてじっくりコメントしていくことにした。今回のreadersvoiceみたいに慌てて書いたコメントでページが埋まってしまうよりもいいと思うし、月の後半が持たないしね。とりあえず公開しておいて、後からコメントをつけていきます(コメントをつけるたびに「新着コメント」へ浮上してくる仕掛けになってる)。
値上げの件については確かにご指摘の通りだと思う。せめてエッセイでも書けば良かった。が、書けば書いたでカネカネ嫌らしくなりそうな気もする。どうもこの辺りの加減が微妙で、うまく対処できない。
ものに価格をつけるというのはとても難しい。特に自分達のように自分自身の手で作ったものに価格をつけるのは。それは「情報」という不定形なものに限らず、パン屋のパンだろうと橋梁だろうと同じだと思う。そんな至極当たり前なことにようやく気づきつつある昨今。
午後の部開始。。。
戻ってきたら朝の書き込みが消えているのは何故だ。またtDiaryの罠か。追記したつもりが最後の書き込みで全上書きされてしまうという。どうせ餌しか蒔いてないんだから、いいか。(ちゃんと「この日付の日記を編集」栗して全文修正する癖つけなさい>nagajis)
CD-R発送とKINIASとsponsor.htmlの修正をするだけでこんなに時間がかかるとは思わなんだ。2度ほど焼敗したのが原因か。それで今から道場河原へゆくのである(行かない行かない)。
空っぽなのも寂しいので、先日masaさんに教えていただいたいいものを紹介。木馬と修羅とインクラ(トロッコ)の動画だ。
http://jfes.ac.affrc.go.jp/machine/reddata.html
自分は木馬の動きの速さに瞠目した。あのヘアピンをスイッチバックせずに下って行くのもすごい(しかもインに人がすれ違う)。木馬道てふものを見る目が変わる動画だ。修羅のウスがこんなに華麗に機能してたというのも驚き。何だこれは。ピタゴラスイッチか。
NHKのデジタルアーカイブスなんかで調べればこういう映像が出てくるかも知れないな。しかし受信料を払ってない私(=テレビなどない私)は入れてもくれなさそうな気がする>NHK
2011年3月11日(金) 午後4時05分
タイトル: とりあえず無事
家の中足の踏み場もなし
しばらく活動不能
実家に手伝いに行く
TUKA氏からの第一報.その後14日に一時帰宅され,水が出ず余震で眠れない窮状を訴えていた.その後連絡が途絶えている.
59号の延期は11日のうちに私の判断で決めた.TUKA氏はただ原稿を書いているだけじゃなく,ORJのQuality Checkの役をしてくれている.ヨッキれん氏の原稿も私の原稿も見てもらっている.TUKA氏チェックによってORJのクオリティが保たれているといってもいい.(pdfがらみのつまらんミスは私のせいだ)
そのチェックがないから発行できないというのもあるし,そもそもTUKA氏自身の原稿の最終pdfを見てもらっていない.原稿はいただいていて,初校は見せているのだが,再校はまだだ.
水道が復旧すれば,自身の記事だけでも見てもらって・・・と考えていたのだが,その思惑もかなり不透明になってきている.放射能漏れの影響で非常な混乱を来しているはずだ.NHKの報道はチェックしているが市街の様子は充分に伝わってこない.おそらく報道以上に混乱していると思うし,そうでなかったとしても「それどころじゃない」だろう.
発行日が遅れても質の高い記事を作るべきだ,というのが氏の持論だった.かといってこのまま待ち続けても氏に全責任を被せるようで忍びない.しかし氏のチェックが(編集部の複数人によるチェックが)ORJの生命線である以上,それを守らねばならないようにも思う.そういう葛藤を一人で勝手に感じている.
ただ感じているだけでは前に進まんだろうから…近く決断を下さなければ.
ORJを読んでくださっている方,バックナンバーCDやカレンダーを購入して下さった方の中にも被災された方が数多くおられると思う(オッキライ君も無事だろうか).広範囲の方にお世話になっている割にはつながりが微かで,それ故に案じる思いをうまく対処できない.無事だろうか.家族や親戚は.そう思うばかり.
幸いなことに…廃道をゆく3は予定通り進行するとのこと.ORJの記事をあげたあと,全ネタ書き進めているが,互いに少しずつ関連していて,しかしカッチリ固めるための鍵情報がまだ入手できていず,ちょうどキーストーンを欠いている状態だ.来週半ばに一気に出来上がる感じになるかも知れない.
↑あーあー
地形図じゃなかったか。waybackmachineから発掘してきたけど図書かなあかん。しかも解像度めっさ荒い。図をトレースするって簡単なようで難しい。どこが必要なのか、どこを省略できるのかわからない。あーあー。やるならやる、やらないならやるでさっさとやっちゃえばいいのに。あーあー。
奈良図に行きたい。行かねばならない。行きたいと思ってもすぐに行けない状況をあーあー。
あーーあーー。つぎ滝川のときは風屋ー野尻を確認のこと。あーあー
歩かなければ新たな興味が広がらない。進まなければ止まらない。ああー
まどみちお氏逝去の報を聞いてやぎさん達の行動事象歌に思いを馳せている昨今である。あーあー
知事引継書はなぜ別表を省略しておるのか。大事なことがわからぬではないか。あーあー
文用。Introduction。大阪の煉瓦製造業。全国の40%を製造したこともある主要産業。けれども完全解明からは程遠い。そもそも刻印ー会社の対応ができてない。あーあー。
2。古い煉瓦には刻印。(ex.大阪府庁跡から頒布樹三書刻印煉瓦。泉布観の煉瓦) 考古学資料としての価値。 刻印(煉瓦)からその建造物の建造年を推測。しかし 刻印ー会社の対応は不完全。
水野新太郎氏の研究。主に大会社のもので、採録されていない刻印は無数にある。
そこで
研究の目的:刻印と会社のマッチングを行ない、より網羅的な対応表を作成したい。あわよくば関西圏の煉瓦製造業の長消を研究。
手法:刻印採取と分析。文献資料渉猟。
まず「いつどんな会社が存在したか」洗いざらう必要。先行研究として泉南市紀要。より徹底的に資料調査(工場一覧のほか商工録ほかの資料も。ただしwebで)。かわりに関西圏全部作っといたから。(この部分は配布資料に委ねる)
以下手法の解説しつつ特徴的な刻印の説明。あーあー1.資料から。2.刻印から。3.煉瓦分布状況から(工場跡地とされる場所での採取、その周辺における分布状況)。4.「共使い」からの絞込。
成果は配布資料見てね。不完全だから計画はご利用的に。
今後の課題。分布状況の調査。年代既知な煉瓦建造物に見られる刻印の例の採取(特に大会社以外のもの。発掘調査報告書。建造物移設改築調査報告書の類薄い)。煉瓦製造業に関する文献資料の収集。とくに明治初期の。
話す用。 関西の煉瓦製造業。最盛期には全国の40%の煉瓦を製造。始まりも古い(造幣寮、砲兵工廠。京都神戸間鉄道)。全国を代表する産業だった。にもかかわらず研究進んでないんじゃね。まあ全く途絶えた産業ではあるけれども。
とっつきやすいところ。刻印<>会社名のマッチング。言い換えると会社がどんな刻印を使ってたか特定。煉瓦刻印。会社が自社製品であることを示すために。だから会社が使っていた刻印がわかれば年代推定のものさしに使えるんじゃね。そのへんに転がっている高々2000ccくらいの物体から製造年がわかるってのも面白いやん。あーあー
煉瓦刻印の先行研究はある。第一に水野氏の研究があるが不完全。意外と関西のが少ない。
この時点ですでになげえな。言いたいこと整理しとかないと無理。あーあー。
1.資料から。おもに「大日本商工録」。大正期の5大窯業。先行研究から貝塚。と言われてるけど一次ソースわからんかった。まあ年代合わないことないけど。知ってる人いたら教えて。
旭窯業。実物存在。
2.刻印から。刻印の形自体がヒントに。さきほどの旭窯業、旭日マークだから旭窯業ともいえる。これは奈良の例だが「小」を図案化。丹治煉瓦工場跡の「丹」マーク。
3.分布状況から。大阪狭山市の大阪煉瓦。六稜星。「★」。転石の活用。
4.共使い。旧府神社。日本煉瓦と堺煉瓦と★。部屋とYシャツと時々私。 岡町の井桁。
以上のクロスチェックで絞り込んでいくことが可能ではないか。
児童ポルノ対策強化は結構だけど、雑誌カテゴリをまるごとダメにされると辛いなあ。FLASHセットとかFRIDAYセットとか、きょうの料理セットとか作れなくなるやん。
逆の立場で考えれば、そうでもしない限り根絶できないわなぁと思う。それでも別カテゴリに紛れ込ませて売ろうというやつは規約違反でBANできるわけだしな。
こっちだってそんなに必死になって売りたいものでもない。どこにも出せないブラックアイテムが不良在庫以下の不良在庫となって溜まっていくだけだ。さっさと破って捨てるほうが世の中のためでござんすよええ。
廃墟マニアが喜びそうな物件、と紹介されることの多いこの建物。これが何だったのか、いつ作られたものか、知っている人はいないらしい。そういうのには誰も興味がないらしい。
旧版地形図に「火」マークの記されている建物。火薬庫弾薬庫ではなく、たぶん炸薬装実所とかそういうやつだと思う(海の家とその背後にある民家の辺りはもとは火薬庫か弾薬庫だったはず。旧版図に土堤の仕切りが描かれている。ただし火薬本庫はこの谷の奥標高40m附近にあった)。
笠石の裏に貝塚煉瓦の井桁が露出している。野奈浦の建物跡や第三砲台脇の発電所にも貝塚煉瓦刻印がある。明治35年頃(やったけか)に完成した補助建物にまとめて採用されているようだ。建物にばかり見られるのは何か理由があるのだろうか? それとも単に建設時期と納入可能な余裕のあった会社の組み合わせでこうなったんかしらん。
kousenさんが見つけてはった煉瓦製墓石。正確な場所を覚えずにいたのだが、岸和田市街地をうろついている時に偶々遭遇することができた。
明治43年に亡くなられた方の墓。側面の戒名などを刻んである煉瓦に大阪窯業の刻印が押されているので他の煉瓦も大阪窯業製だろうと思う。おそろしく美しく焼かれた煉瓦である。小口長手のなめらかさが違う。大阪窯業の機械成形煉瓦の見本と考えると(罰当たりかも知らんが)非常に参考になると思う。
そういえば戒名銘の煉瓦は撫でてあったな。撫でて刻印を押した上から文字を刻んである(文字は刻んで焼いたのではなく既成品に彫刻してある)。M43には製法が変わったんだろうか。大阪窯業岸和田工場はいつ稼働?
明らかな違和感を感じるのだが、具体的にどこがどうおかしいから違和感を感じるのか説明ができない。本人の画像はよく見るけれどもマジマジと見つめたことはなく、しかし機関車+顔というと(やえもん以外には)ないと思われるのでそうだとわかる程度の記憶である。書いた方もうろ覚えだし判じようとしている私もうろ覚えであって千日手さながらの膠着に逢着するほかない。ただ絵自体は大変上手であってその点に於いては私は敗北を認めなければならぬ。隣の鶏のリアルなことはこれが公園の立ち枯れ木に描かれたものだということを忘れさせる。そのせいで逆に彼の違和が目立つのである。
ひとつだけわかった。本人のほっぺはもっとふっくらしていたと思う。そうアンパンパンみたいな感じのまん丸いほっぺ。こういうやつれ痩けた頬はしていなかった。その痩けた頬のせいで夜勤明けの労働者の如くに見えてしまうが普段の本人はそうじゃなかったはずだ。見よ無精髭すら生えているではないか。実際彼だって夜勤明けはこんな顔をしているのかも知れぬが。
眉が細いかも知れない。いや、黒目の大きさの問題かも。眼の形はこうだった気がするが。もうちょっとフレンドリーな感じを醸していなかったか、と考えるとやはり黒目の問題だろう。
追記:ととさんに「これゴードンじゃね?」と指摘されてしまった。何の事はないうろ覚えなのは私だけであったのだ。あまりに格好悪いのでそのままにしておく。しかし検索で出てくるゴードンはいろんな顔をしていて自分の中で一つに結像しない。共通点はあるように思うのだがいつまで経ってもAFが迷っている感じ。まるで椎名林檎じゃないか(酷
22日追記:あまりにきかんしゃのことを考えすぎたせいか
トーストにマーガリンのみ塗って食べる
を
トーマスにガソリンのみ塗って食べる
と空目した。
なるほど、彼らが私を呼んでいたのか…。
9時過ぎに武田尾に着いて、廃線敷に辿り着いたのが15時とは、どういうわけだ。我ながら馬鹿げた本願を抱いたものだ。しかしそのおかげで最古のレールに出会えたわけで。このレールが現役だった頃西郷どんも大久保卿も生きていた。そう考えると感慨も一入だ。
DARLINGTON IRONのは71や73も存在する。錆び尽くしてダメだこりゃと思えるものも、裏を見たら意外と綺麗に残っていたりした。水平材は腐っていることが多いみたいだが何しろ数があるお陰で状態のいいものを見つけられる。
それにもまして謎なのが、DARLINGTON IRON CO LIMD 73 IRJの平底レールがあったことだ。その頃は双頭なんじゃないのか。
→京都大阪間は平底であったらしい。その後逢坂山隧道の辺りは再び双頭レールになって、それが最後だそうだ。確かにCAMMELLのと思われる1878も存在した。てことはこの鉄柵には関西地方の鉄道建設黎明期のレールが全部揃っていることになるな。官営八幡の1903も一本こっそり混じっていたからさらに話は広がりまくりんぐ。ただし平底レールの大半はCAMMELL・ILLINOISの阪鶴納入レール1896-1897、関西鉄道KTK(Wいくつやっけ)、大阪鉄道OTK 1888~1889とかなのでずいぶん幅がある。加えて官営八幡の1910年代のも混じっている。相当幅があるのはどうしてだろう?
実物を見たい人はこの送水管の高さまで登ればよい。
もしくは武田尾バス停の背後のここ。
長尾山第二隧道前のゲロ藪に塗れたものと第二隧道出口脇の沢の柵はパスし、親水公園の付近のものを1/3ほど調べたところでタイムアップ。つうか武田尾駅からここまで鉄柵は全部双頭レールを使ってあるのだな。
Before...
_ nagajis [WD(!WesternDigital)。自作自演なのでありません>Bee様(何 渡辺(仮)様、失礼しました、すっかり失念してました...コメントアウトしておきました。]
_ nagajis [この動画を見ていると、わざと勾配を緩く取ったという話が実感として理解できますね。これ以上勾配を取ったら危なくて仕方ない。他所で、全身の力を込めて引いている絵(人間が10度くらいの角度で引いてる)を..]
_ Bee [す、すげぇ・・・アレが常態なら異常すぐるぞ、吉野。]