nagajisの日不定記。
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四十分、三時限授業ありて十時五十分より、大講堂に於て十六時まで学芸会ありて、特に、軍用犬の訓練に就きて実際軍隊から来てなされたので教訓多かりき。了は独国家、野ばら、空の荒わし・如意輪寺を合唱す。
〔nagajis:「了」は予か〕
徳丸・広瀬教官殿と共に三学班全員は我等の担任教官殿として一日を楽しく有意義に過さんとの目的を以て隈府に至り久しく菊池一族勤王の跡を偲びたり。代々の勤王の士一族近くにあり。我等奮起せざるべからず。五時起床 往復電車 十六時帰校誠に有意義なる日なりき。
それより最初に目が行ったのは,ポータル裏側の亀裂がL字鋼+ボルトで固定されていたことだ.ひびを跨ぐようにして何本もL字鋼を渡し,それをボルトで煉瓦壁に固定している.何だかブラックジャックの顔の瑕のようで痛々しかったが,実際問題として廃隧道のポータルを補強しようとするならこれ以外に方法がないように思われる.もしくは西側のコンクリート補修のようにポータルの外側から「つっかえ棒」でもするしかない.そしてそれは景観を台無しにする最悪の方法だ.ポータル裏のこのヒビは山から外側に向かう土圧が原因だから,いったんポータル裏側の土砂を取り除いて圧力を減じ,ヒビを埋めたうえで,クッション材になりそうな素材で埋め戻すか,付近の岩盤から土砂留めをたちあげてポータルとの間に壁を造ってやるしかないだろう.みたようなことを,低くなった扁額を見上げながら思った.
嵩上げされたことにはあまり反感を覚えない.開通当初の高さに戻ったのだから,言ってみればこれが元の姿.見づらかった扁額も鶴の彫刻もちょうど良い具合の角度で見られるし,隧道脇の寄付金者名碑も目の高さになった.以前はちょっとした崖の上にあって,上に登らなければ間近に見ることができなかったが,路面が嵩上げされたお蔭で誰もがこの石版に目をやることができる.この日は熱心にメモを取る人の姿もあり,長いこと放置されてきた碑にとって良い供養?になったと思う.
一つだけ,この嵩上げによって昭和の掘り下げの記録・記憶が薄れてしまわないことを願う.最近になって,土木工事はその改修の積み重ねもまた価値があるのではないかと思うようになった.例えば鋼橋などは鉄道用から道路用へ,歩道へと転用されて何度も使われている.ダムや堰堤も決して造り捨てではない.築数十年で取り壊されるビルの一過性に比べれば,もっと長い目で造り続けられ,手を加えられ続けていくことが土木というものの本質なのではないか.門外漢が何を言うか状態ではあるが,そんなことを思う.
煉瓦アーチ+側壁という離散構造体を載せたまま路面を掘り下げる.考えてみればなかなか難しいことである.ちょっとでもバランスを崩したら,掘り下げた足元が緩んだりしたら,アーチは崩れ落ちてしまうだろう.どうやってこの掘り下げを成し得たのか長い間の疑問だったが,先号の廃道を読むを書きながら,いわゆる「逆巻き法」と同じことをやったのだろうと気付いた.櫛の歯のように数mおきに路面を掘り下げ,そこから側壁下を掘ってコンクリートで壁を造り,煉瓦を支える.それが乾いたら残りの区間も掘り出して同様に壁を造る.交互に壁を造るのだ.確証はないけれども他に妥当な工法もなさそうである.
入口が高くなったアーチ.それを実現するための薄い煉瓦の層.この日通った人のどれだけが気付いただろうか.否,気付かないほうが設計者の意図に叶っているのかも知れない.自分はそれを知っていながら,自然にトンネル内へと吸い込まれていき,不思議と「低くなった」という感じがしなかった.そうして出口が見える頃,外が大きく明るく見えることで安心感を覚えた.向こうに「世界」が広がっている.おおげさに言えばそんな感動だ.理屈で解っているのと体感するのとでは雲泥の差だということを実感した.
多田銀山へ向かう幹線道だった場所。中央の凹みが旧道。左右に広い平場があり、一種の関所のような役割の建物があったと推定されている。掘立て柱の跡や井戸跡、土塁の石垣などもあり。今の川沿いの道が作られたのは明治10年代というからある種の明治道ではある。
車道整備で失われそうになったのを働きかけ残したのはIさんだ。こういう素敵な方に出会うと気分が晴れる思いがする。何かできないだろうかという気になる。
多田銀銅山徘徊、始めてみようか。実際のところはすでにIさんの立派な報告書があって、素人が加えることはないだろうけれども。
横須賀トンネルマップの入稿が予想通りの不慮の事故続きでうまくいかず。入稿で失敗しそうなところをことごとく失敗している。前職のいやーないやーな思い出が蘇るぜッ!
何とかリカバリーしたつもりだが、どうなることやら。しかも当日は対応できない。心の安心は金では買えないから二重三重のバックアップを取って了とす。
というわけでみんな! ヨッキれん氏の横須賀トンネル巡りはnagajis謹製のパンフがお供するぜ!(するはずだぜ!(無事に行けば))。みうみう言いながら全部マウスで描いたnagajisを想像して笑ってくれっ。
※注 最終版下にはいません
リンクを栗→該当ファイルがあればそれを開き、特定ページを表示させたい。なければ公式ページに誘導。
なのだが、障害が山のようにあって解決しない。まず手元のAcrobat(5.0.5)で処理できるJavascriptの限界。別ファイルを開き、それに対してJavascript処理をしようとする場合、対象となるファイルにそれを許可するフラグを(Javascriptで)立てておく必要がある。例えば
otherDoc=openDoc("../ORJ_xxxx/hogefuga.pdf");
otherDoc.pageNum=6;
というのを仕込んでもhogefuga.pdfにフラグが立ってないとエラーになる。
過去号に対してリンクする場合(それが一番の目的なのだが)、それがネックになってしまう。過去号にはそんなフラグ立ててないから全て修正する必要がある。そうすると既に購入済みのpdfがOBSOLETEになる訳で、買い直していただかなければならなくなる。
仮に購読期間を無くして無制限にDLできるようにしたとても、503を連発する鯖がさらに混雑してしまい、肝心の最新号がさらに買いにくくなるだろう。
購読期間を撤廃するほうが読者的にはいいと思う。気兼ねなく修正できるのも(私的に)有り難い。しかしそうしたところで難がある。リンク先をページ数指定でジャンプさせ表示させる方法では、ページの追加でページ数がずれた場合に追従できない。リンク元も書きなおさなければならない。参照元が一つならいいが、複数あるとすごく無駄。
ジャンプさせる方法としては「移動先」の設定をして、その移動先にジャンプさせる方法もあるにはある。しかしこれも新たにリンクの必要が生じたとき新規に移動先を設定せねばならず、リンク元リンク先の2箇所の修正が必要だ。過去のリンクをすべてそれに修正するのも気が遠くなる。
結局、pdfで連鎖をつくろうという行為が無駄なんかもしらん。
崇光なんとかではないが、手を当てて、痛い感じに感情移入してあげる位しかできなかったのである。薬も低周波治療器も効かないのであれば私の出番はない。
_ tyaffic [地球は夜な夜な繰り広げられる神々の余興、ビリヤードの球の中の1個みたいなもんです。その球の中で苦しみましょう。お互いに…]
滋賀県を道路隧道特異点たらしめた土木技術者.谷坂隧道や観音坂隧道といった意匠的な道路隧道を設計した人である.伝記や論文がすでにあって,それを参考にして書いた他の4人とは異なり,自分でゼロから調べ上げ,人となりまで突き止めて書いた.
そういう個人的な話は抜きにしても,それなりに価値のある一編だと思っている.村田鶴はノン・エリートの官吏だった人で,そういうレベルの官吏の生き様が明らかになることはまずない.そもそも隧道を設計した人物の名が伝わることからして稀だ.それがここまで明らかになったのだから.
ORJで書いたことに加え,ご子息のKさんにお会いして得た新情報を追加している.これ以上判ることはもうないだろう.
7年前に初めて谷坂隧道を見て以来,彼の経歴を追いかけてきた.その集大成のつもりで書いたせいでずいぶん苦労し,また編集のOさんにも迷惑をかけた.Kさんにお会いし,興奮醒めやらぬ頃に書き始めたのもよくなかっただろう.
最初は他の4人と体裁を変え,自分が話の中心となって,谷坂隧道の遭遇から今日に至るまでを逐一書き上げるような形式にしようと考えた.理由はいろいろある.5人のうちの1人として書くのが忍びないと思うほど肩入れれしていて,何かしら仕掛けを施して印象深くしたいと思ったのが一つ.全くの無名の人物だし,いくら自分が隧道好きだからといって,隧道設計者の話が万人の興味を引くと過信しているわけではない.「かっこいい隧道作ったんよ」「ふーん」で終わらせたくなかったのだ.
ここで書かなければ二度と機会はないだろうという思いもあった.「まず不可能だろう」と言われた判任官クラスの技術系官吏の経歴調査.薄氷を踏む思いで脈絡を繋いだ.行政の壁に阻まれ,迂回して核心に迫った.偶然を3つも4つも重ねて最後まで到達した.そのへんの苦労をぶちまけてやろうと.調査の過程を書くことが,同じようなことをしようという人の参考になるんじゃないかとも思った.
加えて,村田鶴の経歴調査をやった自分が「道と人との関わりの一例」だというメタ構造にしてみたかった(何も自分が偉人の仲間入りしたいからではない.書籍名が「偉人伝」に決まったのは村田の稿を書き終えた頃のことである.止めておいてよかった).偉人の経歴を紹介して「どうだすごいだろう」と主張するだけになってしまうのはつまらないし,そういう役ならもっと適格者がいるだろう.道に興味を持ち,道を訪ねて歩く趣味がどういうものか,具体例を示してみたかった.そういう細工をする前に文章何とかしろという意見は,ごもっともであるが脳が受け付けない.
というわけで,最初はそんな原稿を書いたのだが,書き終える頃に本全体の文字数がオーバーしそうな塩梅であることが判明し,村田鶴原稿7万文字を突っ込むことが不可能になった.そもそも上記の如き小細工をしたところで私が満足するだけだ.必要事項のみ抽出し,他とフォーマットを揃えたら半分以下になった.理解に必要な情報は減らしてないつもりなので,消された半分は個人的な余計事であったこと,即ち7年分の苦労とやらもその程度だとわかり,ずいぶん悄気た.しかしそれによって本の体裁は整ったはずで,村田鶴という人がどんな人であったかを伝えるというそもそもの役目は120%果たせたはず.省略した余計事は,またいつか,どこかで書けばいい.
表紙は吉崎道の切通し.天爵大神指揮のもと,細呂木の人々が掘ったものである(大正末期に改修が加えられているそうなので当時の姿そのものというわけではないと思われる).タイトルや写真選定は全くお任せしたが,出来上がったものにとても得心している.こういうのは変に凝らないほうがいい.
本文Q数(文字のおおきさ)は若干小さく思われるだろう.調子に乗ってあほみたいにたくさん書いたのがいけないのだ.
参考文献は,本文中に併記したものが多いので不要のようにも思われたし,相番振って明示するほどの親切心は起こらなかったが,個人的にはこの手のページがとても参考になったことが多く,入れさせてもらうことにした.紹介した人や道に真に興味を抱いてくれた方は,本文に書かれてあることを信じるよりも,この文献を読んで各自で理解を深めていただいたほうがよい.
プロフィールは「(できれば真面目に)」というご要望を受けて真面目に書いたつもりでいる.ご愛嬌はKINIASと旧道倶樂部が並列なところだけである.
今回JIS男の出番はない.そのかわり1つだけネタを仕込んである.気づいたらニヤッとしていただきたい.
以上,格好悪く徹底的に宣伝した.発行後にやったほうが著者必死だな感が増していいかも知れないと思ったが,ここでぶつくさ書いている限り変わらんだろう.(宣伝するという役も含め)肩の荷が降りてとにかくほっとしている.
年を取ると新しいもの・新しい概念が受け入れられなくなるという。とてもその通りだと思う。基本的に二十歳前後から、鐘ヶ坂隧道に遭遇した頃くらいからnagajisは変わっていない。
それ以前から新しいものに興味がなかったような気がしないでもない。流行りの音楽を進んで聴くこともなかったし、物心ついて以降の各時代のアイドルの名前も覚えていない。ジャンプやマガジンの連載をリアルタイムで全話読んだ覚えもない。兄や友達がキン消しやカー消しの数を自慢していた頃、はて自分は何に熱をあげていたっけか。MSXとかファミコンとかがそうか。そればっかりだったな。
年を取って頑迷になるパターンは2種類あると思う。新しいものを吸収するのが面倒になったり、脳生理学的に?不可能になって、すでに習得している知識なり技量なりに縋って生きざるを得ない人。新しいものを否定する傾向がある(そのくせ不便をかこつ)。それとは逆に、既習得の技量で必要十分で、それで何でもこなせてしまう人。それはそれで不幸である。
20代を境に、脳がどんどん劣化していくのを実感している。一度読んだり見聞きしただけでは覚えられなくなった。何度も何度も繰り返さないとなかなか覚えられず、その繰り返しの回数は年齢に比例して増しているように思えてならない。そんな老化に対し、感性とか洞察力とかは(経験の蓄積によって研鑽されていくので)年を経るごとに高まっている気がする。記憶力の下降線と感性の上昇線が交差して、後者が前者を上回るようになったとき、生き方が変わるんじゃないかと思う。どういうふうにと問われると困るが、漠然とそんなことを思う。やがて記憶力が底をついた時には感性だけで叫ぶ喚く徘徊するの惚け老人になるのだろう。できればそうなりたくないので、せめて能力低下の度合いくらいは正確に把握しながら生きていきたい。
なかなかよい仕事をしておるではないか、褒めてやるぞ>nagajis。
自分が自分を信じなきゃ誰が自分を信じてくれるん代?とKくんのお父さんも言ってはった。それが自分の最も苦手とするところなのだけれど、お言葉自体はまことに正しいと思っている。できることならば、そうしてあげたい。いやそうしたから働けたのだろ。
今日も朝からネジ回し。ただひたすらにネジ回し。回して回して回しまくって、お世話になったカートを二つ無に帰してあげることができた。ひとつは昨年の地震で本棚の下敷きになり大破したのを大手術して復活させたもの。よく働いてくれた。よく助けてくれた。ありがとうと念じつつネジ一本残さず分解した。解体した部材の手垢の黒さに涙が出る気がした(気がしたって何やねん)。
錐揉み式発案の御蔭で手にマメができるようなことはなかった。そういえば↑のカートを治す時にガチ手回ししてマメを作ったような気がする。少なくとも鋸を扱い損ねて血だらけにしたのは確かだ。その血痕ももう昔語りの領域であり誰一人記憶するものではなくなった。よいことである。nagajisの痕跡なんてカケラの一つも残すべきではない。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/13-10-0143.pdf
S6産業道路として水間佐野線の改修決定。
直江津線の煉瓦も追いかけてみようと思ったら石造アーチがやたらと出てきて、確かに石造アーチの暗渠が残ってる。すげえ。やっぱり先入観はよくないなぁ。
ノーマークだった浅川暗渠。1@4ft。
拡幅部のみねじりまんぽで仕上げてあった。こういうパターンがあるとはな……!
それほどきつい斜交ではないのだが(むしろ直角に見えるんだが)わざわざ難しい技法を採用してあるところに職人の気合を感じる。接合部はあまりきれいでなかったがさほど傷んでいるようでなかったのも多分職人の腕によるものと思う。個人的には大発見だが、市街地だし目につく位置だしで誰か気づいているんだろうと思う。
寝過ごして昼から出かけたような中途半端な日だったけれども、発見はなかなかに多かった。諦めていた瀬田川橋梁でも右岸の洲に異形煉瓦が転がっているのを発見できたし。
転じていた煉瓦は笑ってしまうほど"B"ばかり。最初のほうで一個だけ"シ"="C"を見つけられただけで、残り10個くらいはみんな撥形。その"シ"が全形でなかったのが残念で、1時間ほど粘ってみたけれども、そもそも扇形異形からして見当たらなかった。溜まっているくさぐさをかき分ければもっと見つけられるかも知れないので、また隙を見つけて潮干狩りに行ってみることにしようと思う。
いまの下り線は昭和25年に複々線化された時の建造物。上り線は確か昭和40年代(46年だっけ)にPCで作り直されたもの。開業時の橋梁は地形図上では現上り線の位置に一致する。ということは初代の12ft井筒も複線化時のもまとめて取り壊されて瓦礫となり転じていることになる。故に”B"と”シ”の製造時期を絞り込むことができない。そもそも湖東組の”ビ”はどこへ行ったという話だ。
ややこしいことに、瀬田川左岸の大江二丁目の旧市街で”A”と”7丁”をみつけてしまった。湖東組の製品がここまで来ているのは確かなことだ。して”A”は”B”と対応する同工場のもの。そこに絡んでくる”シ”はどっちかの工場の製品なのか、それとも第三社のものなのだろうか。”7丁”は傷みが激しくて形状指示印は見つけられなかった。測るのを忘れていたが”C”相当のサイズ感。”シ”は欠けていたのでそこに甲乙か丙丁があったかも知れない。いや待てよ、Cは12ftと9ftで共通だから甲乙とも丙丁とも割り振り難い。。。てな感じでますます謎が深まるばかりの発見なのだった。
(”ビ”の採取型と比較すると大きさはよく一致する→”シ”)
ああそうか、近江八幡で”B”相当の”丁5”を検出していたんだった。別に丙丁=9ftと限ったことではない。限れば別に形状指示印を押す必要もなくなってしまう(んなことはないか、施工する側にはなんのこっちゃわからない)。やっぱ7丁も計測しておけばよかった・・・。
一番の目的である小口印については収穫なし。今回の暗渠はすべて左右にBCを添え継いであって、その関係でアーチの小口がうまく確認できない。限界の深さに動きを制限されたのも多かった。2、3日前の雨の影響もあっただろうか。
_ とと [どーでもなるんちゃいますの…。 やったれやったれ、やったったらええんちゃいますか。]
_ The Kate [ペンタブ買われたらよろしいのに]
_ iso [マウス描きでこその、この味でせう。ベジェ曲線での描画もかなり使えまっせ。]