nagajisの日不定記。
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終日剣道大会行われ、一年は九時より一里の長距離競走行わる。始めの中あまりゆっくり行き過ぎ其の結果四十三番となり、二等の賞を与えらる。徳富四等、山根五等となる。午後は大会見学をなす。大会の結果三運動班は四等となり、残念極まりなし。又しても六運の手の物となる。脚なお痛し。
今朝は殊に寒さを増し室外零下四度なり。今日の射撃予行演習にて悪き癖あるを感じぬ。(1)照準がいつまでもつかざること。(2)撃発が照準に支配されがちにてがく引の如し。毎日の演練必要なるも注意すべし。
剣術も亦基本動作崩れつゝあり。特に後にて感ずるは、腰の速〔推〕進(へっぴり腰なり)及び斬撃した際の突進不可なり。伊東寛文さんの如くつっ走る可し。思え之れ唯攻撃精神に原因するのみなり。勝負にこだわる勿れ。行うには勝つを目的とするも余り之にこだわると礼儀も乱れ、基本動作乱るゝなり。
時のたつは早きもの早四週間もたてば冬休暇なり。
4年目にしてまた振り出しに戻る。村田さん、あんたって人は・・・。
真実は確かにそこにあるのだ。けれどもそこへの道がか細い。森の木陰に岩陰に紛れて見えないその道を道だと嗅ぎ取る能力がほしい。大正5年から昭和11年までの県議会議事録を8時間で理解しながらすべて読み解き張り巡らされた計略を見破る脳味噌がほしい。
雑物を篩にかけようとするから遠回りになるのか。すべてを元素分析するくらいの気概がないと真実には近付けないのではないか。それをハナから「無理だ」と諦めていけはいけない。そうやって数年前、身を投じたんじゃなかったのか?>ジソ。
滋賀県庁でいろいろ判明したということ。いままでの成果が覆るものではないが、説明に困る。&、全然時間が足りない。ついでに佐和山と横山の面白い情報を入手。ついでに北国街道・若狭街道の設計図入手。吟味する時間もねぇぜ。その前にHDD片付けないと写真入らねぇ。三台目を増設するしかないのか・・・?
電車の中でいい〆を思いついたが忘れた。何のためにメモ帳持ってッたのか。
うわ! うわ! 古写真の場所同定したっ! でもここが貯木場だとしたら、どげしてトロに載せるンえ??? FIFOで前から?
おれの記憶やるから、かわりに誰か書いてくれ。
郡費支弁里道のことをしつこく考えている。考えているだけで答えは出てない。
明治11年に自治三新法(郡区町村編制法)が公布され、自治区として郡が成立。県と町村の間にあって、両者の調整役というか、上からの通達を町村に遵守させるための管理者といった感じ。課税権はなく、県会・町村会に相当する議決機関もなかった。郡の予算は手数料や郡財産からの収入で賄うことが基本(という建前)で、不足分は町村が負担した(賦課金。実質的には賦課金が歳入の大半を占めていた。http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789633/173)。
明治23年の郡制法で、郡会・郡参事会の設置が認められ、また府県町村と同様に法人格を有する団体とされた。郡会議員は75%が町村会で選挙され(複選制)、25%がいわゆる大地主から互選で選出された。
明治32年に改正。郡会議員が直接選挙制になったものの、被選挙権は高額納税者に限られていたから、ますます地方有力者の占める割合が増えた。組合制度(複数の郡にまたがるもの)もこのとき? 予算については従前と変わらず。
郡事業としては、学校の建設など教育事業に関するものが圧倒的に多い。地域の数町村に関係する事業を郡の主導で実施するという形。ただしその経費(予算)は寄付金に頼るか賦課金として町村の負担となるか。郡費支弁里道のような土木事業に対して「補助せよ」という条文はないから、補助するしないは郡によってまちまちだったと思われる。
ただ・・・郡費支弁里道というもの、どうも特定年以降に現われるような感じがする。明治後半、30年代後半以降という印象。近畿圏だけを見た場合なので、「流行」し始めたのがその頃というだけかも知れないし、その頃になってようやく郡事業を盛んに行えるほど地方経済が豊かになってきたということかも知れないが、何かきっかけがあったのではないかと思ったりもする。で、明治32年の郡制改正が関係するのかと思ってみたが、そうでもないらしい。予算収入についてはそれ以前と変わりがないし。地方債で道を作るというのもあまり聞かない(T元地方債統計にも、道路目的の地方債という項目はないようだ。http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/975562/6)
kindai.daにある京都府下の郡治一班や郡誌を見てみると、地方によって郡費支弁里道があるところとないところがまちまちなのがわかる。
明治37年:京都府北桑田郡誌
福知山街道(小浜街道中平屋村より分れ宮嶋大野両村を経て福知山に達する)、花背街道(園部より宇津、周山、山国、黒田を経て山城花背村に至る)を「郡の施工道路」としている。
大正3年:京都府竹野郡勢一斑
仮定県道・主要里道。郡道(郡費支弁里道)なし
明治44年:京都府与謝郡現勢一班
県道・郡道・里道。
大正5年:京都府天田郡治一班
道路分類は国道・仮定県道・郡費支弁里道の3つで、郡費支弁里道17路線あり。
明治45年:京都府宇治郡治概覧
道路分類は国・県・里道。
追記:なぜかはわからないが近畿地方測量部には米軍撮影のがなかった.この辺りのがあったはずなのに.見れたのは観覧システムにある'76もの以降で,これならサイトで400dpiのを見たほうがよい.若干無駄足.とはいえH6の航空写真を見れたおかげで神子畑近くのラインがはっきりした.航空写真の見方の基本は守るべき.
明延側は奥山より西側に痕跡を見い出すことができず.そもそもH6は神子畑以西の航空写真がない.いまの隧道口付近が始点だったとしても,長さが合わない以外は辻褄が合わないわけではない(明延最奥の坑は奥谷で合する谷の上流にあった).計算間違いかも知れぬ.もしくは道沿いに伸びていたか,
ふとした閃きをきっかけに、つながる、つながる。
20. 沢谷橋1914-3
橋名: 沢谷橋 ルビ: 開通年月日: 1914-3 橋長(m): 62 幅員(m): 2.5 形式: 鉄線吊橋 下部工: 特記事項: 場所: 奈良県 天川村 河川名: 天ノ川 出典:
1914=大正3
「架空鉄索道台帳」
http://opacsvr02.library.pref.nara.jp/mylimedio/dl/page.do?bookid=100289410&tocid=0&page=4&pageseq=4
本線 大正3年1月20日工事着手
大正4年2月11日 検査申請/同日竣功
大正4年2月12日 事業開始
おまけ。これも予期せぬ発見。なるほどだからやたら沢山の基礎があったわけだ。
支線 黒滝村笠木駅−吉野郡宗桧村大字西日浦
延長線 下市町−吉野鉄道下市口駅
フーン。なるほどなあ。一段シャープかけたほうがよい。
トリミング変更。
今日は結構思い通りの写真が撮れたカンジ。真っ暗な杉林のなかでの撮影はまだ慣れなくて、そういう場面ではS9100が恋しくなるが、思い出補正だったと割りきって開き直ってしまえばおk。
結論からいえば、現地で気づいた以上のクリーンヒット。電索の黒木駅、切抜峠支柱、川合駅、大峰索道黒木辻特製支柱跡を(おそらく)特定。電索関連遺構として旧沢谷橋橋台。T3開通天川丹生街道。たぶん旧弁天橋主塔。九尾堰堤。そして、ツテ。
トースト、スクランブルエッグ、サラダがわりのキャベツの千切り、昨日の残り。
味噌汁+パンという組み合わせが実は好きだったりする。マーガリンをたっぷり塗って焼いたトーストを浸してはしたなく食べてみたり。マーガリンがうっすら浮いた味噌汁がこれまた美味。
白菜、お揚げさん、豚肉、お揚げさんの順に重ねてめんつゆ+ゴニョゴニョをふりかけて煮浸し。最後にもやしを入れ、思いつきで溶き卵を回しかけてみた。悪くない。悪くないがしかし作りすぎた。明日朝もこれだ。
ごはんはさつまいもの炊き込みご飯。旅行中に無人市で購入したさつまいもが余っていたのでまた作ってみた。旅先ではさつまいもonlyで寂しかったので、ダシ+塩でほんのり塩味にした。大正解。
連投するとなんだか飯食ってばっかりに見えてしまうな。
また、たくさん、かしこくなった。
東洋組刈谷授産所の煉瓦が猿島灯台に使われているのは東洋組がもともと愛知の砲台建設を当て込んで煉瓦だとかセメントだとか土管だとかと作り始めたことと関係している。愛知の砲台計画がポシャったので東洋組も困窮したが陸軍に嘆願書を提出して理解を得、1万円の資金提供を得たり豊橋の師団建築だとかに資材を供給したりしている(「三河地方の産業発展史」とかなんとか)。猿島もその一環なのだろう。だとすれば愛知の煉瓦が東京湾で使われたのは例外的な移動であったといえる。ついでに「西尾市史」に当地の煉瓦製造業の節があったので確保しておいた。
刀根越えの件、想像どおりの展開かつピンポイントに言質をゲットして我ながらすごいとおもった。しかしそこで国道路線変更?となって衝撃の事実に辿り着く。そのへんはひどく甘い。その気分で現地を歩けなかったのは遺憾とするところである。
英国の煉瓦製造業史についてまとめられたもの(「産業革命期の人びと」だったっけ)を発見し嬉々としてコピーする。&M16頃の関東の煉瓦製造法を取得。
日本産業技術史体系に煉瓦製造業の創始と発展期に関する比較的まとまった一章があることを知る。しかし例に洩れず関西は無視されている。第一回勧業博覧会の出品説明があったけれども原口のがないのは何故なんだぜ??? 各社の煉瓦製造法が結構まちまちで興味深い。四面を整えてから形を外す、ってどういうことだ? 8:4:2寸の型枠に詰めて四方を切るって???
最大の目的はもちろん工場通覧をゲットするためだったんだが発行年ではなく本の厚さでセルフコピー不可になり得ることをすっかり忘れていた。自分でコピーするのが面倒だったので国立国会図書館送信にある分はその出力を、残りはセルフで、と目論んでいたが見事に踏み外した。
工場通覧はS15からコピーしなければならなかったのだ。油断してS16から取ってしまった。また府立に行かねばならぬ。まあ、これは急ぐ仕事じゃないから。何なら郵送してもらっても可。
パンパってなんだ。いろいろわかったり用意したりしすぎたせいか、どれも整理が追いつかない。ECサイトは分解途中だし結局はレンズ買わなかったし(ピントが合わないのは仕様なのだ腕が悪いのだと信じ込むことにした)RMSは夜八時までだし原口の進歩賞は第一回内国勧業博覧会ではなく第二回だしそのかわりに第一回に阪府授産所の出品が見つかるし(三個人名有り)bdbはあれだけ見つけた○Gなのに2つしかPってなかったし折角スマホにマイマップ入れたんだからそっちで登録しときゃ済んでた話だったのだし。そして右足は以前より退化している気がしてならぬ。久しぶりに機能不全になっている。やだなあ。最近全然歩いてないからなあ。距離は歩いたからなあ。
よいネタがあるときだけは書きたくなる。現金なものである。発見を誰かに伝えたいと思う感情は多分人類共通の欲求の一つであって、だから論文という仕組みとかChem.Abst.とか出来たんだろうなって思う(ケミアブなんて単語、久しぶりに去来したぞ)。
んで、語ってしまえば元の虚無阿弥だ。そうやって忘れてしまった「稀代の発見」の多いこと多いこと、勿体無い話じゃないか。単なる「行ってきました」報告で済ませるには惜しい色々の発見があった気がするんだけどな。
そこはまあ……所詮その程度の発見、そうゆうものだと思って諦めよう。ひどれもこれもとつのお話に過ぎないのだ。蓄積が世の役に立つ類の話題には非ざる也。あっ、靴洗うの忘れてたっ
本を売る側から買う側にジョブチェンジする結果となった。なんという流れ。
大大阪時代に架け変えられる前の渡辺橋も四角いトラス桁が使われていた。一連のトラス桁で橋を支えるという形ーーー路面中央に上路トラスの壁があるーーーで、昨今の中央吊りのランガー桁はある意味渡辺橋形式に先祖返りしていると言えるが、それはまあどうでもよくて、問題はその旧渡辺橋のトラス桁のほうだ。「大阪の橋」なんかに載っている古写真を見ると、まさしく浜中津橋のトラスのような四角いトラス桁で、斜材の綾構の入れ方なんかもそっくりなのだった。それで「あ、これも浜中津橋のいとこだ」、神戸〜大阪間鉄道の桁の転用か、と思っていたのだけれど。実際はそうじゃないらしい。「大阪の橋」を読んでいたら旧渡辺橋のスパンは100ftとある。神戸大阪間の鉄橋は70ftなのだ。
んじゃあこれどこから来たんだ?と思ったら、「大阪の橋」にはイギリスから購入したと書かれてある。明治20年から建設が始まったけど鋼材到着が遅れてM21竣工とのことだ。
それはそれとして、もしかしたらと思って調べてみたら、大阪〜京都間の長大橋梁のトラス桁はみんな100ftなのよね。M25時点のあの調書によると。(いっつも名前を忘れる・・・国立国会図書館デジタルコレクション所収)
当時大阪〜京都間でトラス桁を使っていたのは、上十三川橋梁(7連だっけ10連だっけ)、上神崎川橋梁(13連)、太田川橋梁(2連)、そして桂川橋梁(11連)の4橋。あれにはラチス桁ってあるけど件のイギリス式トラスのことだ。して全部100ft。旧渡辺橋の写真を見ても、同じ方向を向いている綾構入りの圧縮斜材を5本数えることができる。10パネルなのである(70ft桁は8パネル)。
旧渡辺橋がM21竣工で、M25時点の調書でみな健在なのだったら、転用も何もありゃしないことになる。無駄に調べてしまったわいな。
なお大阪〜神戸間ののちに六郷川橋梁が鉄橋になって、それは明治村に移設保存されている。確かM7竣工で、大阪〜京都間のトラスはその次のやつになる。六郷川橋梁のトラス桁はよくある台形のやつなので大阪〜京都間のもそうだったかも知れない。