nagajisの日不定記。
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http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831452/22
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2014/34-0111.pdf
初代はM19に竣工。M24.10の濃尾地震で破損、第一・第三橋脚は基礎井筒を残して全部作り直し。第二・第四橋脚は亀裂部分を壊して煉瓦をはめなおした。翌年4月までに復旧工事を完了、5月から再供用。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831480/38
ていうことは、作り直した橋脚は煉瓦の厚さが他と違うんじゃね? とシツコイことを考える。実際土木史研究の報文の写真の煉瓦は厚いように見えなくもない。薄いのと厚いのとある。しかしそれがどの橋脚のなのかわからない(ちゃんと書いてあるのもあるけど)。
ちなみに「鉄道工事設計参考図面」の12ftウェルの図はたぶんM29に定規化されたやつ(本は明治30年発行)。なので直接は関係しないとおもう。概観は同じでも中身違うんちゃうかな。桂川の頃から変わってなければ。
●稲葉組煉化石製造所 同所は堺市の稲葉仁兵衛氏が明治二年の頃煉化石製造事業視察の為め泰西諸国に遊び帰朝後堺市菱橋に設置せしものなるが近来非常に需用を増し為めに製造場の狭隘を告ぐるに至りしより大島郡高石村に新築を企て今度落成せしを以て一昨二十日其開場式を同所にて挙行したり当日の来賓は島田大島郡長、江見北王子警察分署長、大橋石津憲兵屯署長を初め村長会社新聞社員等にして中々の盛会あり因に記す同所一ヶ月の製造高は一百万個内外なりと云う
(大阪毎日新聞 1889年10月22日号2面)
100万個/月というのは実績ではないにしろかなり大な産額である。この頃岸和田煉瓦(第一煉瓦製造所)が120万/月を製造したちう記録があるくらいで、それもちょっと怪しかったりするし、それ以外の工場も軒並み50万~40万かそれ以下だ。
しかし移転先で繁盛したような痕跡はない。大阪府統計書でみる限り22年度23年度で稲葉組本部の存在が確認出来るだけで、24年度版からもう早や退場している。
くっそ、書いてる途中で消えた!
明治20年9月17日の広告には堺市少林寺町東三町に第一分工場があったことになっている。少林寺町西○丁には青山工場とか九里工場とかいろいろあるのだけれど、東にはない。いったいどこだろ、と思ってた。
しかしよく考えてみると、堺市史第3編(昭和5)に「丹治利右衛門は(略)三年少林寺町引接寺跡に工場を建設した」とあるし、M29・30には丹治煉瓦の工場が東三町にあったことになってるし、日本工業要鑑大正13年度用(第14版)の丹治煉瓦合資会社の項目にも「本店 堺市少林寺町東川岸 出張所 堺寺地町3丁相生橋東詰」とある。少林寺町東に所有地があったのは確かなのだ。だったら堺煉化石の工場=丹治煉瓦だったんでは?ということになる。
堺煉化石の所在地は南附洲新田で、これは本社の所在地とみてよさそうだ。大阪府統計書では「会社」の欄に出てくる。工場と会社が別の場合にどう表記するのか未確定な頃だから、本社所在地だけ掲載されて工場が忘れられてる可能性が高い。
んで、明治21年2月5日に機械を購入、M21.7.3頃には当時の煉瓦製造業組合にも入ってて、明治21年11月11日には月産40万個(たぶん)、明治21年12月2日には「欧米風に擬したる新工夫の竃」をこさえておきながら、以降ぱったり話が出て来なくなる。
丹治煉瓦と思われる「泉北郡舳松村」の工場が文献に現れるようになるのはその直後なのだ。明治22年の大阪府統計書に舳松村の「煉瓦製造所」が初出して、24年から「丹治煉瓦製造所」となって、以降明治20年代後半から盛んに丹治煉瓦の名を聞くようになる。M3創業とかM6創業と言っておきながらな。それ以前に名が出て来ないのはおかしい。
丹治氏が引接寺跡に設けた工場で煉瓦を造り、堺煉化石がその工場を分工場として、M21.12.2の広告がいう新工夫の竃が舳松村に建設されたものだとしたら、色々と辻褄が合う。その新窯が後に丹治煉瓦の工場として記載されることになるわけで。
丸丹の刻印煉瓦は結構きれいなのだ。この時期のにしては。漬物屋になっている建物の煉瓦なんか、こんなだしな。
そうだそうだ、妙に肌のきれいな煉瓦だと感じたのだっけ。そういう大事なことをすっかり忘れている。あと丸丹は小口前に押されがちなのも注目したほうがいい。
だとしたら、堺の少林寺町東とか引接寺の周辺とかで三本線刻印の煉瓦が見つかってもいい。これはまたひとつの目的として忘れないようにしないと……。行きたいところがちょっと溜まってきた。